Author: ManabuKANAI

2015/07/13

シモンドンとドゥルーズの個体化における「特異性」解釈の差異

堀江 郁智
ジルベール・シモンドンとジル・ドゥルーズの「特異性」の概念
― 「情報」の形而上学的な問い直しのために ―

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/56694

シモンドンは「個体化の原理」の探究を一からやり直そうとする。(……)個体は、「存在の特定の相」でしかありえず、それ単独では決して存在することのないものとして把握される。(……)最終的に、シモンドンは、2つの伝統的な個体観が陥っている共通のアポリアを鮮やかに指摘し、そのアポリアを乗り越えるものとして「前-個体的なもの」と個体の組が生成される「個体化の作用」という考え方を提示している。

1.2 「内的共鳴」の発端としての「特異性」
また、シモンドンの個体化論を特徴づけるもう1つの鍵概念として、「特異性singularité」という用語がある。

現実に存在する1つの個体がありうるためには、効力のある技術的操作opérationが、粘土の明確な塊masseと平行六面体の観念notionの間にある媒介médiationを創設する必要がある。

シモンドンは、異質な「大きさの次元」の間に相互作用が生起する状態、言い換えれば「準備された素材」が「物質化された形態」を獲得する状態のことを「内的共鳴résonance interne」と呼んでいる。(……)この「内的共鳴」を起動させる因子とされるのが「特異性 singularité」である。(……)「特異性」は中間の次元にあって2つの「大きさの次元」を交流させる。加えて、シモンドンによれば、この中間の次元にある「特異性」とは、「具体的なココトイマhic et nuncの特異性あるいは諸々の特異性」のことである。

さて、ドゥルーズは、シモンドンの博士主論文の前半が収められた『個体とその物理-生物学的発生』に対する書評を1966年に発表している。(……)ドゥルーズの書評はシモンドン の個体化論の単なる紹介や注解につきるものではなく、そのなかにすでにドゥルーズ独自の解釈が現われている。(……)ドゥルーズは、シモ ンドンの知見の重要性を要約している。

シモンドンは個体化の前提条件を発見することで、特異性と個体性を厳密に区別している。というのは、準安定的なものは、前個体的なものとして定義され、現実存在とポテンシャルの再配分に対応する諸々の特異性を完全に備えているからである。[…]個体的であることなく特異であること、それは前-個体的な存在の状態である。

言い換えれば、ドゥルーズに とってシモンドンの個体化論の卓越性は、彼が「特異性」を「個体性」から鋭く分離したこと、彼が特異性を「前-個体的なもの」であると見なしたことにある。しかしながら、実際の記述では、シモンドン自身は「前-個体的なもの」に「特異性」の地位を明瞭に与えているわけではなく、むしろ、シモンドンは「個体の水準」において生起する個体化という媒介的な現実に「特異性」の地位を与えているように読める。(……)個体化は生起する以前の「前-個体的なもの」に「特異性」があるというより、まさに「個体の水準」において、「特異性」が2つの「大きさの次元」の中間で両者を交流させ、内的に共鳴させると言えるだろう。(……)シモンドンの実際の記述は、シモンドンの議論がドゥルーズの書評における「特異性」の定義に必ずしも収まるものではない。

それにもかかわらず、ドゥルーズのシモンドン読解を誤解に基づいたものとして安易に退けることもまた避けなければならない。誤読であったとしても、それが結果的にシモンドンの哲学の可能性を最大限に引き出すものである限り、それはドゥルーズ研究だけではなく、シモンドン研究に対しても重要な手がかりとなる(……)

(続く)

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2015/03/16

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0313 西洋のからくり人形 AUTOMATA -It’s a small theater- @ 小山市立車屋美術館
0313 群馬青年ビエンナーレ2015 @ 群馬県立近代美術館
0319 紙片の宇宙 シャガール、マティス、ミロ、ダリの挿絵本 @ ポーラ美術館
0321 Gate : Monika Sosnowska @ 銀座メゾンエルメス

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2015/03/05

「ローマン・オンダックをはかる」について

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以下はTwitter上での会話( https://twitter.com/oqoom/status/572968165560475649 )へのリプライです。
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まずは「ローマン・オンダックをはかる」、とても興味深く拝見しました。

その上で、先にTwitterで言いたかったことは、(「唯名論的」と言ってしまいましたが)もう少し正確に言えばたぶん「「固有名」とか「確定記述」というような問題の枠組み」ということになろうかと思います。以下、もう少し具体的に書きます。

私がこの展示を見たとき、その時点で作品というか展示を物理的に構成していたのは(まだ)何もない空間とキャプション(訪問者への指示を含んでいるので、インストラクションと言うべきでしょうか)の、2つでした。ギャラリーへの指示書もあったらしいということを後に知りましたが、私はその時は気づきませんでした。

そこで私は、キャプションを読むことにしました。そして読みながら、(正確な文章は忘れてしまいましたが)肝は「あなたがローマン・オンダックだったら……」というような「あなた」という言葉だと考えました。そして私は当然「オンダックではないのでなんか蚊帳の外だな」とか、そして「ここは日本だからオンダックが来る可能性は限りなく少ないよな」とか、「でもその可能性は原理的にゼロではないよな」とか、「まぁそうはいってもスロバキア遠いしな」とか、そんなことを考えました。

そんなことを考えたのち、とはいえ「これを(つまりオンダックのみに向けられた文章を)蚊帳の外のわたし」に読ませた「奥村雄樹」というアーティストがいるのだ、ということに思い至りました。ならば、「奥村雄樹」は、このキャプションを含む作品空間(展示)を設えることで、それを読む「わたし」をどのような位置に置こうとしたのだろうか……。

そして再びキャプションに戻った時、やはりその中の「あなた」という言葉が、この作品を見ている蚊帳の外の私が、唯一この展示と接点を持つことができる点なのではと思いました。それこそ「固有名」によって指し示されるもの(”ローマン・オンダック”とか”金井 学”とか)は、確定記述的な要素の羅列(1966年生まれ、スロバキア人……だとか、1983年、東京生まれ……だとか)では原理的に汲みつくせないし、ましてその要素の真理性は究極的には証明できないので、「この「ローマン・オンダックである(かもしれない)あなた」は私のことかしら、と言えないわけでもないしな」と考え、なんだかあの空間の白い壁で測られるべき存在(オンダック)とそのキャプションを見ている「わたし」の間で、なんだか宙づりにされてしまったように思ったのです。

ところで、その時、「この宙づり感は、奥村さんの以前の作品から感じたことに近いな」とも思いました。きちんと作品を拝見できているわけでもないのですが、「Jun Yang….」の翻訳者の言葉の宙づりさ(いったいこの言葉の話者、主体、主語が指示する存在は誰なのか?)とか、風桶展の時のインスタレーションや六本木クロッシングの展示の際の「これを作った(これらの作品を用いて(編集して/翻訳して、再作品化しようとしているようにも見える、奥村雄樹という)アーティスト」の宙づりさ、とかの感覚に似ているなと思い、そういう点で、今回の作品は、過去のプラクティスに連なるものなのかな、と思ったのです。

そのような感想の上で(とはいえ、この見通し自体が、単に邪推なのかもしれませんが)、再び「ローマン・オンダックをはかる」を振り返ると、やはりこの展示では、「なにもない」「なにも起こりそうにない」ということが、強調されすぎているのではなかろうか、とも思ったのです。この作品と、作品を見る私とを繋げてくれるのは、キャプションの文章しかない。

もちろん文章を読みながら宙づりな感覚ももったのですが、しかし、この宙づり感みたいなものは、「わたし自身」と「固有名」や「確定記述」が交わる場(例えば、役所で実印登録をする時とか)にも浮かび上がってくるものでもあるよなぁ、とも思うのです。したがって、最終的にわたしとしては、「この作品を単純に「「固有名」というものが持つ不思議」」みたいな形で受け取るのは、あまりに貧しい受け取り方だろう」と考えるに至りました。

そこで最終的には、おそらく、あの作品はこれを設えた奥村さんの存在、そして実在するオンダック本人の存在も含めて考えるべきなのではないだろうか(しかし、これについては僕はまだ十分に考えられていません)ということにたどり着いたのです(←イマココ、ということです)。だがしかし、そうは言っても今回のようにきれいに「何もない」と、「固有名」のような問題を扱っているのだというような、わりとわかりやすい話に持って行ってしまうこともおきやすいような気もして、「唯名論的なフレームに落ちてしまいやすいのではと思った」と申し上げたのでした。

そしてそうは言ってみたもの、これはあまりにグルグルと考えすぎなのかもしれない、とも思っています。というのも、シンプルに言えば、やはりあの空間には「何もなかった」と言ってもいいのではないか、と思うからです。そしてグルグル考えたのは、それが「何もない」がゆえに、どこまででもあらゆるものを読み込ませられるような構造になっているのではないか。

ですが、もしそうであるならば、ジャッドやモリスの作品が孕んだ問題が再召還されるような気もします(何もない、空の箱であるが故に持続してしまう時間。フリードはこれをバッサリ斬った)。

奥村さんの作品には、個人的にすごく惹きつけられてきました。今回の作品ももちろんそうです。
これまでの作品には、それを見ている私が、見終わって語りたい/指し示したい対象がありました。例えば、そこには言葉や、空間に響き合う音声や、配置された映像がありました。そしてそこに亡霊のように翻訳者や作家としての奥村さんの存在が覆いかぶさっていた。そしてその状況を見て魅力的に感じ、鑑賞者であるわたしがその構造を説明しようとした時、なにをどう指し示したらよいのか、ふさわしい言葉がみつからない、言葉が宙づりになってしまう。複数の主語(主体)、異なる言語の狭間で、指し示したい存在は見えているのに、そこに言葉を与えることができない。自分が翻訳者になって居心地の悪さを味わっているような、不思議な感覚を覚えました。

でも今回は、少なくとも私が見た時点では何もなかった。むろん、これはきっと奥村さんのプラクティスの新たな展開や発展が企図されていてのこと、なのだと思います。それがなにを意味するのか、これから鑑賞者としての私は考えてみたいと思っています。

すみません、ずいぶん長くなってしまいました。
そもそもオンダックのことも「宇宙をはかる」とかチョコの紙の作品ぐらいしか知らず不勉強なので、「違うんだよ、他にちゃんと文脈があってだな……」というレベルの見当違いな感想かもしれません。どうぞご容赦くださいませ。

なにはともあれ、作品について何か書くというのは、はっきり言えば見ている側が試されるということで、なんとも恥ずかしいです。

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2015/02/04

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0201 西原功織 「4コマダイアリーとその他」 @ A-things
0203 進藤詩子 「目読」 @ Hagi Art
0218 井上実 荻野僚介 烏山秀直 山極満博 「−0+」 @ gallery COEXIST-TOKYO
0218 ガブリエル・オロスコ展 「内なる複数のサイクル」@ MOT
0218 菅木志雄 「置かれた潜在性」 @ MOT
0218 開館20周年記念 MOTコレクション特別企画「コレクション・ビカミング」 @ MOT
0218 ピエール・ユイグ @ TARO NASU
0224 奥村雄樹 「ローマン・オンダックをはかる」 @ MISAKO&ROSEN

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2015/01/13

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2015_01

0103 高松次郎:ミステリーズ @ 東京国立近代美術館
0103 ウィレム・デ・クーニング展 @ ブリジストン美術館
0104 フェルディナント・ホドラー展 @ 国立西洋美術館
0105 ヂョン・ヨンドゥ 地上の道のように @ 水戸芸術館
0121 西原功織 @ αM
0121 佐々瞬 「とある日のこと(箱を受け取る)」 @ alainistheonlyone
0121 ロッテ・ライオン fifth @ AOYAMA|MEGURO
0124 岡﨑乾二郎 @ ガレリア・フィナルテ
0124 小鷹研究室・年次報告 <からだ>は戦場だよ @ ビッカフェ

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2014/03/28

RENEWAL : WWW.TERRAINVAGUE.INFO

WEBサイトを更新しました。QUOTESは今のところ日本語のみの予定です。

web site has been renewed. This section “QUOTES” is lang-jp only for the time being. Hello World again!

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2013/06/30

Exhibition

東京藝術大学大学院美術研究科 油画第7(O JUN)研究室展
「太郎かアリスvol.4 」

会場:YUGA GALLERY & 立体工房(東京都台東区上野公園12-8 東京藝術大学美術学部絵画棟1F)
会期:2013年7月1日(月)~7月5日(金)10:00~19:00 ※最終日(~17:00)
オープニング・講評:7月1日(月)15:00~ 野村和弘氏による講評
出展作家:有馬莉菜、小穴琴恵、金井学、呉梨沙、小林裕子、衣真一郎、佐々木美穂子、遠山由恵、富田直樹、Najumun Nahar、山脇紘資

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2013/06/03

KKTNK祝(私の勝手な感慨もひとしおである)記念

メモ:(審査員について)
http://galleristny.com/2013/05/the-venice-biennale-international-jury-has-been-selected/

Venice Biennale officials have announced the five members of the International Jury, which will determine the recipients of the coveted Golden and Silver Lion prizes at this year’s exposition. The jury, which will be led by Jessica Morgan, the Daskalopoulos Curator of International Art at Tate Modern, will also include Sofía Hernández Chong Cuy, the chief curator of the 9a. Bienal do Mercosul in Porto Alegre, Brazil and curator for contemporary art at the Colección Patricia Phelps de Cisneros in New York and Caracas, Francesco Manacorda, who was recently appointed artistic director of Tate Liverpool, Bisi Silva, founder and director of the Centre for Contemporary Art in Lagos, Nigeria, and Ali Subotnick, curator at the Hammer Museum in Los Angeles.
The jury, whose members were proposed by Massimiliano Gioni and approved by the Biennale board of directors, will award the Gold Lion for best national participation, the Gold Lion for best artist in the international exhibition “The Encyclopedic Palace” and the Silver Lion for a promising young artist in the exhibition on opening day–June 1–at 11 a.m. at the Giardini of la Biennale.

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2013/03/29

メモ

美術館建築をめぐって(2)磯崎新+青木淳
http://10plus1.jp/dialogue/dialogue1_2.html

僕が1968年に『建築の解体』を書いた頃は、あらゆる既成概念や価値基準が壊滅状態になった。そして一瞬の静寂みたいな時間が70年代の最初の2、3年にあった。その中から出てきたことのひとつは――もちろん伏流としてはそれ以前にあっんだけれど――アルド・ロッシなんかのコンテクスチュアリズムです。これは、伝統的に存在している都市のコンテクストや歴史のコンテクスト、文化のコンテクスト、要するに、全部建築外にあるものとつなごうという理屈ですね。これに対してアイゼンマンや僕のフォルマリズムは対極にありました。まったく空白の状態を”「主題の不在」という主題”と僕は定義しましたが、そのとき建築が自ら対外的な作用のできる意味を生産できると考えていたことが疑わしくなった。むしろ受け身にまわる。そこで、外部のコンテクストに接続するような扱いをはじめる。それにたいして、自閉して、自らの内部のみの形式性を追求する。「自立性」とか「自律性」とか言われました。自立した建築の仕組みっていうのは、自分自身がもっている形式性の自動展開でしかない。手法論と言ったのは、一種のフォルマリズムへつなごうとしたわけですね。それは自律性のほうからきているんですね。つまり、片一方は都市、あるいは歴史に広げていこうっていうコンテクスト重視の動きがあった。二つは対極的で内に向かうのと外に向かうのと両方が出ちゃうんですよ。それは事態が限界状態に行き着いたあげくに起こる現象なんですね。

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2013/02/11

シモンドン – Yahoo!百科事典

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3/
シモンドン(しもんどん) [ 日本大百科全書(小学館) ]
廣瀬浩司

Gilbert Simondon
(1924―1989)
フランスの哲学者、技術史家、心理学者。サンテティエンヌに生まれる。1944年よりパリのエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)に学び、哲学史家マルシャル・ゲルー Martial Gueroult(1891―1978)、メルロ・ポンティ、イポリット、カンギレムらの教えを受ける。1953年から1963年までポアチエ大学で教える。1958年「ゲシュタルトおよび情報の概念の観点からみた個体化」L’individuation la lumire des notions de forme et d’informationで学位を取得。同年『技術的対象の存在様態について』Du Mode d’existence des objets techniquesを出版。1963年『個体とその物理学的・生物学的発生』L’Individu et sa gense physico-biologiqueを出版。1963年から1983年までソルボンヌ(後のパリ第五大学)教授、1963年同大学に「一般心理学およびテクノロジー実験室」を創設。1989年『心的および集団的個体化』L’individuation psychique et collectiveを出版。
シモンドンの思想の主題は大きく二つに分類される。第一は、「個体化のプロセス」の哲学であり、第二は、技術的対象の発生論的考察である。
第一の個体化のプロセスの哲学において批判されるのは、アリストテレス的な質料形相論である。個体の成立を質料と形相の結合と考える質料形相論は、個体に先だつ前個体的なものから個体が生成してくるプロセスを記述できない。個体化のプロセスとは、過飽和状態にある前個体的なもののポテンシャル・エネルギーが顕在化するプロセスのことである。情報理論や量子力学に依拠しながら、このプロセスを生物学的、心理学的な領域から社会的、集団的な領域にまで拡張し、独自の自然哲学、存在論、倫理学を展開する。彼の個体化論は、ベルクソンやメルロ・ポンティの哲学を刷新するものとして、とくに1990年代以降のフランスの現象学研究者たちによって再評価されている。
他方、この個体化のプロセスがもっとも顕著に観察されるのは、技術的な活動においてであるとされる。この視点から、機械学(メカノロジー)とよばれる独自の技術哲学を展開する。機械を目的実現のための道具とみなす「機械=道具」説と、機械を人間からの自律においてとらえる「機械=自動機械」説の双方をしりぞけ、機械に固有な個体化のプロセスを発生論的に明らかにし、その時間性を問題とする。そのことによって、人間疎外論的な技術恐怖と、啓蒙主義的な技術信仰の二律背反からテクノロジーを解放し、テクノロジーと文化が内的に結びついた「技術文化」の創設を目ざすのである。こうしたシモンドンの技術哲学は、前記の個体化のプロセスの哲学に裏づけられながら、技術に固有な時間性を主題化することによって、ハイデッガーの技術哲学を批判的に継承し、それを具体的な技術史に適用したものとして、フランスの伝統的な科学史には収まりきらない独自な位置を占める。
シモンドンの個体化の哲学は、物理学者イザベル・スタンジェールIsabelle Stengers(1949― )やドルーズに大きな影響を与えている。とくに『差異と反復』Diffrence et rptition(1968)においてドルーズはシモンドンに依拠しながら、伝統的な主体概念を「前個体的な特異性」や「非人称的な個体化」として規定しなおしている。またシモンドンの機械学は、ボードリヤールのシミュラークル論や、ガタリの機械状無意識(フロイトの無意識と異なり、否定的なものとして抑圧されるのではなく肯定的な生産の場であるような無意識。また、単に生命的なものと対立する「機械論的な」無意識ではなく、欲望の流れを切断したり結合させたりしながら、技術的なものや社会的なものを横断するような集合的な無意識のこと)の思想に影響を与え、とりわけドルーズとガタリの共著『千のプラトー』Mille Plateaux(1980)では、シモンドンの技術論が「戦争機械」の概念に結びつけられて論じられている。またベルナール・スティグレールBernard Stiegler(1952― )は、シモンドンの技術哲学をデリダの差延の思想に結びつけて、技術と時間性の関係を分析している。
[ 執筆者:廣瀬浩司 ]

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