Author: ManabuKANAI

2011/07/18

REC.#01(transparency,media,time-space)

Terrain_Vague Manabu KANAI
メモ: コーリン・ロウはいつも遅れて読まれる│今村創平 10plus1.jp/archives/2004/…
Terrain_Vague Manabu KANAI
メモ2: 「物質としての透明性、現象としての透明性」 siritai.jp/lecture/artcri…

carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague まずはここから。 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de…

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben hahaha、ルーバーで例えちゃうと完全にリテラルの方になっちゃうね(笑)。 グリーンバーグ→フリード→クラウスの流れをそれなりに押さえようという涙ぐましい努力よ。ロウの透明性は、フリードのテーブルピース評と如何にかかわるのだろうか?

carmioben tsuyoshi suzuki
僕はロウのしか読んでないし、よくわかんない。だから作品を見て帰納的に類推するしかないのだが、レジェとかコルビジェの絵を見る限り、彼らが壊そうとしているのは前後関係とか上下とか瞬間性といったコンベンションなので、そのジャンルのコンベンションが強く了解されていないと、ただの変な絵だと

carmioben tsuyoshi suzuki
モホリナギとレジェの映画を比較してみる企画。 youtube.com/watch?v=fNt39W… youtu.be/9SgsqmQJAq0

carmioben tsuyoshi suzuki
映像を見ると、モホリナギは多重露出とか影とかを撮っていて、レジェはブランコに乗る少女を天地さかさまにとったり、レンズの空間を歪ますことに傾倒している。

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben YES.コンベンションというのを、僕はメディウム由来の記法と解するが、それらを壊す、というか異なる記法を同居させることを可能にすること=それは現象的な透明性によって担保される、ということなんではないかと思ったりします。(フリードの件は現在目下勉強中なのよね)
Terrain_Vague Manabu KANAI
一応「モダニズムのハード・コア」から引いておくと、「モホリ-ナギやグロピウスのリテラルな透明性と、本来は異次元に存在するものが同時に近くされるときに立ち現れる、レジェやル・コルビジエのフェノメラルな透明性(浅田)」というように区別されている。存外わかりやすいと思うが。

carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague 「本来は異次元に存在するものが同時に知覚されるときに立ち現れる」って状況がイメージできない。それが絵画面に立ち現れているのだとしたら、それはコンベンションによって引き起こされているのではないか。

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben いや、通常は時間を伴うことになると思う。このコンベンションで絵画面を見るが、次の瞬間に別のコンベンションで……という連鎖(点滅)。 が、しかし、フリードはこの時間を一挙に経験させること(瞬間に収斂させる)を主張してるっぽいのね。根拠不明だが。
Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben んー、例えば絵画におけるメディウムとしての塗り付けられた絵具が、図像であると同時に物質でもあり、且つその画面上での価値は他のタッチによって相対的に決定される……というような、複数の次元に引き裂かれている、ってなことかと考えていたけれど、僕は単純化し過ぎかな。

carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague うん。だまし絵的な意味なら分かるんだけど、あるいはキマってる状態に見える何かなのかなともとれるわけで、

carmioben tsuyoshi suzuki
フロイトが記憶の比喩として、ある古代からの都市の場所にあまねく時代の建造物が同居している状態を夢想したり、ベンヤミンが都市の中の別の町の街路名(例:ローマのスペイン広場)はハッシシを吸引したときの感覚に通じるとか言ったりという、なんか常識が解体した時に見えてしまう何かかと思ってい

carmioben tsuyoshi suzuki
たので、分裂症を過度に礼賛する現代思想のそういう領域は自分を不健康にすると思って遠慮しています。

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben まぁ症例的にいえば、統合失調症ということになるわけだけれど。(つまり捨象されるべきものが、捨象されない)

carmioben tsuyoshi suzuki
そういう人々は、本来は別であるものが同じ場所に現れるというような症例が日常的にあるわけだから。

carmioben tsuyoshi suzuki
ヤバイ方向に行かないように、あくまで作品分析的に行くしかない気がする。キマッてたらレジェの絵とか見て「あー、この感じなんだよね」とか思って納得できるわけなんだか。

Terrain_Vague Manabu KANAI
だが、引き裂かないとコンベンションは壊れてくれない。

carmioben tsuyoshi suzuki
で、絵画のコンベンションは弁証法的に発展するのか、作者の恣意的な選択によるのかというのが論点になるのではないか。

Terrain_Vague Manabu KANAI
絵画面に導入されるコンベンションは、メディウムの抵抗(制約)から帰納される、と主張してみたいが、どうだろうか。
Terrain_Vague Manabu KANAI
いかん、深夜に盛り上がりすぎてしまったかもしらん。もう寝んべ。

carmioben tsuyoshi suzuki
うん。答えなどないからなぁ。おやすみ

Terrain_Vague Manabu KANAI
続きはまた今度やろう。モンジュの知恵。結構聞きたいことが色々たまってんだわ。おやすみー

carmioben tsuyoshi suzuki
レジェの映像を音を消して見ると何故か懐かしい感じになるわ。 どうやら対位法的に作ってあるようだ。上下、左右、時間軸上の反転など。 各カットの素材とそれに対する操作を記述していくだけでも、いろいろ見えてくるだろう。

Terrain_Vague Manabu KANAI
フェノメナルな透明性は理念的なものでしかない、っていう結論だけは何とか回避したいなぁ
Terrain_Vague Manabu KANAI
あ、あと昨日「帰納」と書いたが、ありゃ演繹だわ。間違い。
Terrain_Vague Manabu KANAI
汝、公理を与えることなかれ。
Terrain_Vague Manabu KANAI
否、与えられることなかれ、かな。
Terrain_Vague Manabu KANAI
演繹法で制作プロセスを導出しようとすると、結局のところ起点となる公理を無根拠に(或いは帰納法で)設定するしかないという点にたどり着いてしまう。ここでカント的な時間・空間の有限性をアプリオリな条件として使ってこの問題を回避するというのは些かご都合主義に過ぎるのかも。
Terrain_Vague Manabu KANAI
メディウムという存在のアプリオリな条件として時間・空間が要請される、と考えてみても……なんか色々都合よく考えている気がするなぁ。
Terrain_Vague Manabu KANAI
例えば上下左右のない宇宙空間、或いは光速より早く運動する台座という条件のもとで、作品の形態はどの様に決定されるべきか。
Terrain_Vague Manabu KANAI
メディウム・スペシフィックということも、時間・空間が前提条件として与えられなければならない(のだろうか……?)
わっかんねぇーーーー!

carmioben tsuyoshi suzuki
メディウムという言葉を制作に即して具体的に考えれば、それは可塑性のある物質ということになろう。のばしたり、きったりへこましたりできるような。それで意図に対して中立に見えるけど物質的な残余を残していてそれはエラーの可能性を生むと。

carmioben tsuyoshi suzuki
放送メディアとかにも言えることだけど。

carmioben tsuyoshi suzuki
それは所与の条件で、いわばイデアが物質に映される時の欠損である。

carmioben tsuyoshi suzuki
これをヴィーコ風に考えると、verum=factum真実は作り変えたものに置き換えられる。幾何学がわれわれにとって真実なのは我々がそれを作っているからである。

carmioben tsuyoshi suzuki
そしてそれが自然の制作(メディウム)に移れば移るほど確実性から遠ざかることになる。幾何学>建築、絵画>自然学

carmioben tsuyoshi suzuki
なぜなら私たちは自然=人体を作ってはいないからである。

carmioben tsuyoshi suzuki
随分プラトン的な考えだな、と思うがもともと製作というのは、そういう二元論的な概念でしょう。たぶん。 だから町工場のおっさんが自分の会社を製作所というのは正しい。自分の知っていることしかやっていない。

carmioben tsuyoshi suzuki
メディア・スペシフィックということはメディアとそれを定着する方法に由来する不確実性に積極的な意味を与えなければいけないのではないか。

carmioben tsuyoshi suzuki
だからメディウム特有の粘り、重さ、粗さ、自由さのようなものにとりわけ注意する。

carmioben tsuyoshi suzuki
メディウムとは理念を担うもの。そしてそれは人間の尺度に加工された自然なのではないか。籾殻を除いて柔らかく炊き上げられたご飯のように。

carmioben tsuyoshi suzuki
理念とメディウムの二元論。メッセージにたいする声の響き。モデル(光)にたいする粘り気のある絵の具。それらは自由に分節できる構造になっている。

Terrain_Vague Manabu KANAI
さて。メディウムは中立性に見えて、その実、物質として現れる時にまさに物質であるがゆえにエラーが生じる(中立性が損なわれる)というのは、まったくその通りで、いわば各メディアに固有な欠損の様態から自然を模倣する形式を作ることが制作ではないだろうか。
Terrain_Vague Manabu KANAI
で、メディアの中立性欠損という話をする時、やはりそれらが時間的・空間的な世界に属していることを前提条件としなくてはならない。
Terrain_Vague Manabu KANAI
例えば、不可避に選ばざるを得ないメディアとしての僕の体は、ご飯も食べなきゃいけないし、寝ないと死んじゃう、みたいな。 或いは身長や手足の長さ、というような条件(制約)。
Terrain_Vague Manabu KANAI
あまり詳しく知らないけれど、普通バレエやダンスで現れるのは中立的な身体で飯を食ったり寝たりはしない。 アイドルはウンコしない。

carmioben tsuyoshi suzuki
時空間ももちろん理念的なものである。それが考えられる以前から自然は今と変わらずに存在していただろうから。

Terrain_Vague Manabu KANAI
虚の透明性については明日にまわそう。次は、時・空間は理念的だとしても人間にとって所与の条件、というところから始めたい(悟性=カテゴリ、という意味で)。だが、そこに定言命法をぶつける、という自由((善)意志)。
Terrain_Vague Manabu KANAI
時空間を前提としたうえで、メディウムに与えられているコンディション。一方で、私がメディウムと出会った時に(知覚、或はそれを超えて)そこに何かを見るという事件(事故)。これを原理としてモノを作ると、コンベンションは壊れざるを得ない。
Terrain_Vague Manabu KANAI
他者への愛は、定言命法として与えられる(そういう意味では、これは私に選べることではない)。これを時空間(因果律)の世界に属する他者にぶつけていく、というかたちで自由(の実践)が保証される。(……のだろうか?)
※ここ数日の会話。carmiobenは(たまに)示唆に富むことを(というか、物事を分かりやすく)言うことがあって、私のdomain内にも一応記録しておくことにした。本人の許可などとっていないが、知ったことではない。

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2011/07/08

IN-MOTION

MOHOLY-NAGY IN MOTION on 20110625
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/nagy/index.html

RGB、影(射影)、写像(写真)、そして時間(in-motion)。

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2011/06/27

PAULKLEE

http://klee.exhn.jp/
パウルクレーについて書いておくつもりだったが、すっかり忘れていた。メモとしていくつか記しておく。
今回の展覧会では制作プロセスに主眼がおかれて文脈が作られていたこともあって、クレーが絵画に持ちこもうとしている問題系が非常に分かりやすかったように思われる。
それは有り体にいえばPhotoshop的論理とIllustrator的論理の統合をはかるということなのだが、そこに運動(及び時間)が関わるということである。分かりにくいので補足する。
対象の像を絵画平面上に定着させる論理として、基本的には色(光)として記述するか、形体(線)として記述するか、という問題があり、それらは基本的に排他的なシステムとして閉じている。ラスターデータ(Photoshop)とベクターデータ(Illustrator)は基本的には相容れない。
これを如何に統一するかということが近代絵画の引き受けている大きな問題系の一つであると思うのだが、クレーの場合はこれらの異なる記述体系の統合をはかる際、「如何にそれぞれの異なるパラメータを接合し溝を埋めるか」ということではなく、そのまま「異なるパラメータをもつデータを重ねあわせた際に、如何に各々の体系が破れる(破綻する)のか」という点をフックにして制作をしているように思われる。
基本的には閉じている体系を異なる体系と衝突させることで、破綻する瞬間を作り出す。そしてその体系の破れをフックに、切断、回転、置き換え、接合、というような静止した平面自体を破る契機として利用しているのではないか。
では、その静止した絵画平面を破ることによって導入しようとしていることは何か。それは運動、時間(対象を見るという制作者(クレー)の運動、それに要する時間、及びそれらが記述された絵画平面を見るという(鑑賞者の)運動、それに要する時間)ではないか、というのが現段階での私の予測である。
※カタログを熟読できていないので、あくまで作品から引き出せたものだけで考えてみた現段階での予測であるが、あながち間違ったモノでないことを願う。

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2011/06/20

技術について

—-この絵のもとになっているのは何ですか。
 出発点は裸体そのものです。寝たり、立ったりしているだけの古典的な裸体とは違った裸体をつくること、そしてそれを運動の中に置くことです。(……)『階段を降りる裸体』において、私は運動の静的なイメージを作り出そうとしました。運動はひとつ抽象、タブローの内部で分節された演繹であって、現実の人物が、やはり同じ現実の階段を降りているのかどうかなどというのは、どうでもいいことなのです。実際、運動というのは、タブローにそれを合体させる観客の眼のことなのです。
(p.53)
—-『花嫁』までは、あなたの探究は持続を表現すること、図示することのうちに表されていましたね。それが『花嫁』以降は、ダイナミックな運動が止まってしまったような印象を受けます。それはちょうど器官がその機能に置き代わったようなものです。
 だいだいその通りだと思います。私は運動の観念、あるいは運動を何らかのやり方で記録するという観念すら、完全に忘れてしまいました。(……)
—-『大ガラス』のアイディアは、あなたの頭のなかでどのように生まれたのですか。
 わかりません。技術的なものであることもしばしばあります。ガラスは、支持体としてたいへっほもしろいと思いました。その透明さがね。それだけでもたいしたものだった。それから絵具は、ガラスの上に置かれれば、反対側からも見ることができるし、中に閉じこめてしまえば、酸化することもなくなります。色彩は視覚上の純粋さを可能なかぎり長く保ち続けるでしょう。こういったことすべてが技術上の問題を作りあげ、それもまたそれなりに重要なものだったのです。
 さらに透視画法もひじょうに重要なものでした。『大ガラス』はまったく無視され、けなされていた透視画法を復権しようとするものなのです。透視画法は、私のもとで、完全に科学的なものとなったのです。
—-写実主義の透視画法ではありませんでしたね。
 はい。数学的な、科学的な透視画法です。
—-計算に基づいていたのですか。
 ええ、それと次元に。それが重要な要素です。私が中に入れたもの、それが何だったかわかりますか。私は歴史や、よい意味での逸話を、視覚的な表現に混ぜ合わせたのですが、視覚性、眼に見える要素には、普通ひとがタブローに与えているほど、重きを置きませんでした。私はもうあまり専念する気はなくなっていたのです、視覚的な言語には……
—-網膜的な
 それゆえ網膜的な。すべてが観念的なものとなりました。つまり、それは網膜とは別の何かに依拠しているのです。
(pp.72-73)
—-技術的な問題以上に、あなたが取組まれたのは、科学的な問題でしたね。比率や計算の問題。
 すべての絵画は、印象主義以来、スーラも含めて反科学的なものになっています。それで私は科学の正確で厳密な面を導入することに興味を持ちました。(……)私がそれをしたのは、科学に対する愛からではありません。反対に、むしろ科学を、おだやかで軽い、取るにたらないやり方でけなすためだったのです。でも皮肉なものです。
(p.74)
—-そんなにわずかでしょうか。あなたの数学の知識には、あなたが科学的な教育を受けてこられなかっただけにいっそう驚かされます。
 いいえ、そんなことは全然ありません。その頃のわれわれの関心の的だったのは、四次元でした。『グリーン・ボックス』の中には、四次元に関するメモがたくさんあります。(……)
 ともかく、私はそのころポヴォロフスキーが書いたものを読んでみようとしました。測度とか直線とか曲線とかを説明したものです。私が仕事をしているときに、そういったものが私の頭の中で働いていました。『大ガラス』に計算を持ちこんだりはしませんでしたがね。私は単に、投影、不可視の四次元の投影というアイディアを考えただけです。四次元を眼で見ることはできませんからね。
 三次元の物体によって影をつくることができることはわかっていましたから、—-それはどんな物体でも、太陽が地面につくる射影のように、二次元になります—-、単純な知的な類推によって、私は四次元は三次元のオブジェに射影されるだろうと考えました。別な言い方をすれば、我々が何気なくみている三次元のオブジェは、すべて、われわれが知ることのできない四次元のあるものの投影なのです。
(pp.75-76)

※この後、ルーセルについて「方向、あるいは反ー意味(アンチーサンス)の方向で何かを試みることができる、という考えを私は彼から吹込まれた」(※given)との記述が見られる。
(『デュシャンは語る』 マルセル・デュシャン×ピエール・カバンヌ(岩佐鉄男 小林康夫 訳) ちくま学芸文庫 1999年)

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2011/05/05

Speak Like A Child

288613339.jpg
http://www.youtube.com/watch?v=fURS07axPfc

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2011/04/30

時に、読み替える

認識 → 悟性(カテゴリー) → 合法則性(因果関係) → 自然(空間・時間)

反省 → 判断(特殊→普遍) → 合目的性 → 技術・芸術

行為 → 理性 → 善意志(定言命法) → 自由

言語 → 悟性(カテゴリー) → 合法則性(因果関係) → 記号

技術 → 判断(特殊→普遍) → 合目的性 → 芸術

享楽 → 理性 → 善意志(定言命法) → 自由

※1もちろん誤読であることは承知の上である。
※2自然(時間と空間によって規定される因果関係)に対する超越性こそが、理性に駆動される芸術(技術)の本懐ならば、「震災に対して芸術は何ができるか」などという寝ぼけた問いはあまりに愚かではないか。そもそも問題設定が間違っている。

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2011/04/27

exposure *1

そろそろ種明かしを少しずつ。
参照項1
given.jpg
*1
今流行の言葉で言えばexposureらしい。しかし、当たり前すぎて今更言うようなことなのだろうか。というか、「アカデミズムの中でヤクザ的に振る舞う」というようなことを言う人が、マーケットのルールにしか言及しようとしない者に言われっぱなしというのはどうなんですかね、せめてぶん殴るぐらいのことをしないと筋が通んないんじゃないですか。

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2011/04/18

back soon

避難所
http://tech-for-os.blogspot.com/

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2011/03/01

Exhibition

6th Daikokuya Contemporary Art Award Exhibition
Date:2011.03.01[TUE]-03.31[THUR]
Place:Itamuro Onsen Daikokuya
http://www.itamuro-daikokuya.com/exhibition/2011/index.html

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2011/01/31

the nikki

おかげさまで30日で28歳になりました。
同じ誕生日のアーティストが同じ空間にいたこと、イニシャルが二人ともM.K.であること、偶然にもパーカーとジーンズを愛着すること……そういった偶然を因果関係として考えてみること。
何年ぶりかわからないけれど、バースデーケーキを食べた。
良くわからない僕のような人に親切にしてくれる人達に、今夜は感謝しながら寝たい。
happy birth day for me, and happy for everyone.

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