Terrain_Vague Manabu KANAI
メモ: コーリン・ロウはいつも遅れて読まれる│今村創平 10plus1.jp/archives/2004/…
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メモ2: 「物質としての透明性、現象としての透明性」 siritai.jp/lecture/artcri…
carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague まずはここから。 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de…
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@carmioben hahaha、ルーバーで例えちゃうと完全にリテラルの方になっちゃうね(笑)。 グリーンバーグ→フリード→クラウスの流れをそれなりに押さえようという涙ぐましい努力よ。ロウの透明性は、フリードのテーブルピース評と如何にかかわるのだろうか?
carmioben tsuyoshi suzuki
僕はロウのしか読んでないし、よくわかんない。だから作品を見て帰納的に類推するしかないのだが、レジェとかコルビジェの絵を見る限り、彼らが壊そうとしているのは前後関係とか上下とか瞬間性といったコンベンションなので、そのジャンルのコンベンションが強く了解されていないと、ただの変な絵だと
carmioben tsuyoshi suzuki
モホリナギとレジェの映画を比較してみる企画。 youtube.com/watch?v=fNt39W… youtu.be/9SgsqmQJAq0
carmioben tsuyoshi suzuki
映像を見ると、モホリナギは多重露出とか影とかを撮っていて、レジェはブランコに乗る少女を天地さかさまにとったり、レンズの空間を歪ますことに傾倒している。
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@carmioben YES.コンベンションというのを、僕はメディウム由来の記法と解するが、それらを壊す、というか異なる記法を同居させることを可能にすること=それは現象的な透明性によって担保される、ということなんではないかと思ったりします。(フリードの件は現在目下勉強中なのよね)
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一応「モダニズムのハード・コア」から引いておくと、「モホリ-ナギやグロピウスのリテラルな透明性と、本来は異次元に存在するものが同時に近くされるときに立ち現れる、レジェやル・コルビジエのフェノメラルな透明性(浅田)」というように区別されている。存外わかりやすいと思うが。
carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague 「本来は異次元に存在するものが同時に知覚されるときに立ち現れる」って状況がイメージできない。それが絵画面に立ち現れているのだとしたら、それはコンベンションによって引き起こされているのではないか。
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@carmioben いや、通常は時間を伴うことになると思う。このコンベンションで絵画面を見るが、次の瞬間に別のコンベンションで……という連鎖(点滅)。 が、しかし、フリードはこの時間を一挙に経験させること(瞬間に収斂させる)を主張してるっぽいのね。根拠不明だが。
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@carmioben んー、例えば絵画におけるメディウムとしての塗り付けられた絵具が、図像であると同時に物質でもあり、且つその画面上での価値は他のタッチによって相対的に決定される……というような、複数の次元に引き裂かれている、ってなことかと考えていたけれど、僕は単純化し過ぎかな。
carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague うん。だまし絵的な意味なら分かるんだけど、あるいはキマってる状態に見える何かなのかなともとれるわけで、
carmioben tsuyoshi suzuki
フロイトが記憶の比喩として、ある古代からの都市の場所にあまねく時代の建造物が同居している状態を夢想したり、ベンヤミンが都市の中の別の町の街路名(例:ローマのスペイン広場)はハッシシを吸引したときの感覚に通じるとか言ったりという、なんか常識が解体した時に見えてしまう何かかと思ってい
carmioben tsuyoshi suzuki
たので、分裂症を過度に礼賛する現代思想のそういう領域は自分を不健康にすると思って遠慮しています。
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@carmioben まぁ症例的にいえば、統合失調症ということになるわけだけれど。(つまり捨象されるべきものが、捨象されない)
carmioben tsuyoshi suzuki
そういう人々は、本来は別であるものが同じ場所に現れるというような症例が日常的にあるわけだから。
carmioben tsuyoshi suzuki
ヤバイ方向に行かないように、あくまで作品分析的に行くしかない気がする。キマッてたらレジェの絵とか見て「あー、この感じなんだよね」とか思って納得できるわけなんだか。
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だが、引き裂かないとコンベンションは壊れてくれない。
carmioben tsuyoshi suzuki
で、絵画のコンベンションは弁証法的に発展するのか、作者の恣意的な選択によるのかというのが論点になるのではないか。
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絵画面に導入されるコンベンションは、メディウムの抵抗(制約)から帰納される、と主張してみたいが、どうだろうか。
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いかん、深夜に盛り上がりすぎてしまったかもしらん。もう寝んべ。
carmioben tsuyoshi suzuki
うん。答えなどないからなぁ。おやすみ
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続きはまた今度やろう。モンジュの知恵。結構聞きたいことが色々たまってんだわ。おやすみー
carmioben tsuyoshi suzuki
レジェの映像を音を消して見ると何故か懐かしい感じになるわ。 どうやら対位法的に作ってあるようだ。上下、左右、時間軸上の反転など。 各カットの素材とそれに対する操作を記述していくだけでも、いろいろ見えてくるだろう。
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フェノメナルな透明性は理念的なものでしかない、っていう結論だけは何とか回避したいなぁ
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あ、あと昨日「帰納」と書いたが、ありゃ演繹だわ。間違い。
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汝、公理を与えることなかれ。
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否、与えられることなかれ、かな。
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演繹法で制作プロセスを導出しようとすると、結局のところ起点となる公理を無根拠に(或いは帰納法で)設定するしかないという点にたどり着いてしまう。ここでカント的な時間・空間の有限性をアプリオリな条件として使ってこの問題を回避するというのは些かご都合主義に過ぎるのかも。
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メディウムという存在のアプリオリな条件として時間・空間が要請される、と考えてみても……なんか色々都合よく考えている気がするなぁ。
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例えば上下左右のない宇宙空間、或いは光速より早く運動する台座という条件のもとで、作品の形態はどの様に決定されるべきか。
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メディウム・スペシフィックということも、時間・空間が前提条件として与えられなければならない(のだろうか……?)
わっかんねぇーーーー!
carmioben tsuyoshi suzuki
メディウムという言葉を制作に即して具体的に考えれば、それは可塑性のある物質ということになろう。のばしたり、きったりへこましたりできるような。それで意図に対して中立に見えるけど物質的な残余を残していてそれはエラーの可能性を生むと。
carmioben tsuyoshi suzuki
放送メディアとかにも言えることだけど。
carmioben tsuyoshi suzuki
それは所与の条件で、いわばイデアが物質に映される時の欠損である。
carmioben tsuyoshi suzuki
これをヴィーコ風に考えると、verum=factum真実は作り変えたものに置き換えられる。幾何学がわれわれにとって真実なのは我々がそれを作っているからである。
carmioben tsuyoshi suzuki
そしてそれが自然の制作(メディウム)に移れば移るほど確実性から遠ざかることになる。幾何学>建築、絵画>自然学
carmioben tsuyoshi suzuki
なぜなら私たちは自然=人体を作ってはいないからである。
carmioben tsuyoshi suzuki
随分プラトン的な考えだな、と思うがもともと製作というのは、そういう二元論的な概念でしょう。たぶん。 だから町工場のおっさんが自分の会社を製作所というのは正しい。自分の知っていることしかやっていない。
carmioben tsuyoshi suzuki
メディア・スペシフィックということはメディアとそれを定着する方法に由来する不確実性に積極的な意味を与えなければいけないのではないか。
carmioben tsuyoshi suzuki
だからメディウム特有の粘り、重さ、粗さ、自由さのようなものにとりわけ注意する。
carmioben tsuyoshi suzuki
メディウムとは理念を担うもの。そしてそれは人間の尺度に加工された自然なのではないか。籾殻を除いて柔らかく炊き上げられたご飯のように。
carmioben tsuyoshi suzuki
理念とメディウムの二元論。メッセージにたいする声の響き。モデル(光)にたいする粘り気のある絵の具。それらは自由に分節できる構造になっている。
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さて。メディウムは中立性に見えて、その実、物質として現れる時にまさに物質であるがゆえにエラーが生じる(中立性が損なわれる)というのは、まったくその通りで、いわば各メディアに固有な欠損の様態から自然を模倣する形式を作ることが制作ではないだろうか。
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で、メディアの中立性欠損という話をする時、やはりそれらが時間的・空間的な世界に属していることを前提条件としなくてはならない。
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例えば、不可避に選ばざるを得ないメディアとしての僕の体は、ご飯も食べなきゃいけないし、寝ないと死んじゃう、みたいな。 或いは身長や手足の長さ、というような条件(制約)。
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あまり詳しく知らないけれど、普通バレエやダンスで現れるのは中立的な身体で飯を食ったり寝たりはしない。 アイドルはウンコしない。
carmioben tsuyoshi suzuki
時空間ももちろん理念的なものである。それが考えられる以前から自然は今と変わらずに存在していただろうから。
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虚の透明性については明日にまわそう。次は、時・空間は理念的だとしても人間にとって所与の条件、というところから始めたい(悟性=カテゴリ、という意味で)。だが、そこに定言命法をぶつける、という自由((善)意志)。
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時空間を前提としたうえで、メディウムに与えられているコンディション。一方で、私がメディウムと出会った時に(知覚、或はそれを超えて)そこに何かを見るという事件(事故)。これを原理としてモノを作ると、コンベンションは壊れざるを得ない。
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他者への愛は、定言命法として与えられる(そういう意味では、これは私に選べることではない)。これを時空間(因果律)の世界に属する他者にぶつけていく、というかたちで自由(の実践)が保証される。(……のだろうか?)
※ここ数日の会話。carmiobenは(たまに)示唆に富むことを(というか、物事を分かりやすく)言うことがあって、私のdomain内にも一応記録しておくことにした。本人の許可などとっていないが、知ったことではない。