quotes」カテゴリーアーカイブ

2011/10/03

メモ

岡崎乾二郎【見ることの経験】
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/okazaki/dan064_06.html

フリードの論で可能性が感じられるのは。没入という概念よりも、むしろ視覚を差異性として、捉えようとしたところにある。しかし、こっちは十分に展開されていません。この論を展開していけば視覚は消去されるどころか、絶え間なく分岐生成していくという、その進行しつつあるプロセスの中でだけ、はじめて、視覚は可能になるとさえいえるはずなんですが。
……絵画であれ彫刻であれ建築であれ、それらは視覚空間の問題であると同時にやはりそれをどう見るかということでは、やはり見る側の問題でもあると?
ええ、絵画だけではないですが、変換の過程ということで、たとえれば、ものを視るという行為には、そもそも文章を読んだりするのと同じ側面があるのではないかと考えています。文は、単に単一なシンボルとしてだけ成立しているわけではない(イコノグラフィに解消されるようなものではない)。
 読むというのは、むしろ推理、学習の進行し続けるプロセスです。単語を読むとは、その語に代わりうる複数の語のパラディグム(変換可能性)を見てとることであるし、文(そのシンタックス)というのは、さらにこんな単語が複数そこで出会うということであり、つまりはそこで出会っているのは、複数の異なるパラディグムだということになる。
 単語とはわれわれの視覚が捉える個々のイメージにほかならないし、絵画というのは、こうした潜在的に可能な複数の異なるパラディグム――つまりは両立しえない複数の空間が出会う文章のような場にほかならないわけですね。マサッチオやブルネレスキの作品を例にして、示したかったことは一言でいえば、そういうことだったと思います。

※この見出しには「 絵画、両立しない複数の空間が出会う場」とあるが、これはロウの透明性(相互貫入)との関係でもって理解すべきだろう。建築の透明性というアイディアを美術作品についても敷衍するならば、パラディグムの問題として捉えなおすことが可能ということだろうか。

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2011/09/27

メモ

『モダニズムのハード・コア』
「【共同討議】モダニズム再考」p.39

岡崎 作品をつくるときでも見るときでも、ぼくもよく考えますよ。いまだ客観ではありえない普遍というやつですね。
もし主観的なものだったら人にわざわざ見せる必要も語る必要もないし、あるいはもともと客観化されているものであるならば、やはりそれをわざわざまた人に見せるのも語るのも冗長なだけである。そういう、基本的には主観であるけれど、一つの主観には回収しえない妙なものがある。つまり、その複数性がいまだ客観的でない普遍というものだ、と。つまりこれこそが他者と論議するに値する判断ですね。これがカントの言う美だと(笑)。

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2011/09/27

メモ

2011-09-26 – 偽日記@はてな
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110926

佐藤さんの話が面白いのは、コンテンツ指向でもコミュニケーション指向でもなく、その両者を循環的に繋ぐものであり、そして、わたしとあなたの「関係」に拘泥するのでもなく、関係を切断する第三項(超越性)を関係の外から持ってくるのでもなく、「関係」のなかから「第三項」を(あるいは第三項を変化させる契機を)たちあげようとするものである、というところだと思う。それによって、個(深さ・特異点)-関係(水平的ネットワーク)-第三項(垂直的超越性)の間に循環的な通路が通じる。そして、それを可能にするのが媒介としてのリズムだということになる。媒介とは、連続性と非連続性を同居させるものであり、リズムとは、規則性と不規則性を同居させるものである、と。

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2011/09/27

芸術を学ぶ松浦寿夫選書

芸術を学ぶ松浦寿夫選書
http://kumitate.org/matsuura/matsuura.html
※『絵画の準備を!』とかベンヤミン、キットラーなどは入らず。佐々木正人はうーーーん、という感じだけれども。勉強したい。

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2011/08/23

mannerism and modern architecture

コーリン・ロウ『コーリン・ロウ建築論選集 マニエリスムと近代建築』
伊東豊雄・松永安光 訳  彰国社 昭和56年
「透明性—-虚と実」

さて、ジョージ・ケペシュは「視覚の言語」の中で非常に手際よく「透明性」という言葉の定義を更につきつめていったのである。

 二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共有部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するためには見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである、すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけではなく絶えず前後に揺れ動いているのである。透明な像の位置は、近くにあるかと思えば遠くに見えるといった多義性を秘めているのである。

(pp.206-207)

 後期セザンヌの特徴は、その極端な簡略化である。中でも全景に対して正面像が圧倒的な支配力をもっていること、奥行を感じさせる要素が少ないこと、その結果として、全景・近景・遠景が極めて凝縮された構造の中に組み込まれていることなどが、その特徴である。光源は限定されているが、多様に変化する。そして彼の絵画をじっと見つめると空間の中で対象物が前に飛び出してくるように見えてきて、この感じは不透明でコントラストの強い色彩により、一層強められ、また山の裾が画面の縁と交差することによって更に強められる。画面の中心部にはかなり密な斜め方向の直交するグリッドがかかり、周辺部には更にはっきりした水平および垂直方向のグリッドがかかって画面の中央部を支えている。
 正面性、奥行のなさ、空間の省略、光源の限定、物体の前方突出、限られた色彩、斜交および直交グリッド、周辺部を明確にする傾向、などはすべて分析的キュービズムの特徴である。(pp.208-209)

 斜めの曲線の構成は対角線方向の空間のくぼみを暗示し、他方一群の水平線と垂直線はそれとは対立的な正面性を強調している。概して斜めになった曲線はある種の自然主義的な意味あいを持つが画面の縁と平行な直線の方は絵画の面を強調する幾何学的傾向を示している。しかし、この二つの座標系は両者相まって画像を空間の広がりの中へ浮かび上がらせると同時に、画面の上に定着する役目を果たしている。そして交差し、重なり合い、絡み合いながら更に大きな輪郭のはっきりしない図像を構成していくこの二つの座標系は、典型的なキュービストのモチーフの発端である。(p.210)

 ガルシュ(図12)の住宅の一階部分の壁面の後退は屋上のテラスの両側に自立している二枚の壁面にも表現されている。この奥行は側面に回り込んだガラス窓からもうかがうことができる(図7)。(引用者註:屋上の自立壁面は、庭園側のファサードにおいて建物最前面の端まで伸びてきておらず、一階部分の後退した壁面の位置にあわせてとめられている)このような方法を用いて、ル・コルビジェはガラス面のすぐ裏側にそれと平行した細長い空間が存在することを言わんとしているのだ。(引用者註:たとえばそれは回廊のようなもの?)更に彼はその考え方を推し進めて次のようなことをほのめかしている。すなわち、この細長い空間の向こう側に一階の後退面、屋上の自立壁、側面に回り込んだ窓の枠などによって構成されたひとつの面が存在しているのである。そしてこの面は、物理的な事実というより明らかに概念上の都合で考えられたものとして受け取られてしかるべきでもあろうが、それがはっきりと存在することは否定できない。ガラスやコンクリートでつくられた物理的な面とその背後にある想像上の(実在性が全くないともいえない)面を見ると、透明性は窓の働きによって生み出された訳ではないことに気付き、「互いに視覚上の妨害をすることなく相互に貫入する」という透明性の基本的概念を思い起こすのである。
(……)以上に述べたような面のそれぞれはそれだけでは不完全で断片的であるが、これらの面を参照点として全体のファサードが構成されている。またこれらの面が表現しているのは垂直に層状に重ね合わされた建物の内部空間であり、次から次に浮かび上がってくる横に広がった空間の連続なのである。(pp.219-220)

 さてこの家を通してみると、ケペッシュが透明感の特徴として認めた空間の位置上の矛盾が存在するのだ。事実と暗示の間の絶えざる弁証法が存在するという訳だ。実際に奥行のある空間は見掛け上の奥行の浅さとは常に矛盾する。そしてその結果起こる緊張によって何度も繰り返し読みを深めることが強いられる。立体としての建物を垂直に分割する五層の空間と、水平に分割する四層の空間とはそれぞれ時に応じて眼をひくのである、そして空間をこのように格子状に分割することにより解釈は絶えず揺れが生じるのである。
 このような知的な洗練はバウハウスにはほとんど見られない。実際、知的な洗練というものは材料の美学とは相そぐわない場合が多いのである。(pp.221-222)

 この奥行は大会議場を貫く軸線上で、前庭の進入路の形に大会議場の建物の鏡像を射影したときにできる菱形の上に端的に現れている。しかし、ここでもガルシュの住宅と同様、この形態に固有の奥行の表現をどうにかして薄めようとしる努力がなされている。図形としてとらえた場合、これは木立、園路、建物そのものの動きなどによって幾つもに分断され、横軸方向を暗示する一連の指標に置き換えられるのである。そしてこういった相反した暗示作用の繰返しの結果、全体としてはある種壮大な葛藤の場となってくるのである。それは実で奥行のある空間と虚で奥行のない空間との間の闘いなのである。(p.227)

 これは虚の透明性が(キュービズムに由来するものであることは別にして)現代建築の必要構成要素であるというための議論ではなく、また虚の透明性が建築の正当性を試すリトマス試験紙となるというための議論でもない。これは単に属性の特徴づけに役立て、属性の混乱に対する警告として役立てばよいと願ったまでのことである。(pp.229-230)

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2011/08/21

KKTNK @ AYM|MGR 2011 NATSU

田中功起 : 雪玉と石のあいだにある場所で
 一昨々日(木曜日)、終了前ギリギリでやっと見てきたわけですが。
 僕が最後にご本人を見たのはアメリカに行く前の群馬県立美術館で、ということは2009年ということになるのだが(そしてその間、まさにここの意味不明で不躾な記述がなんとご本人に捕捉されtwitterでmentionが飛んできて、んでなぜかマスターの時の論文PDFを送ったりしたわけだが、まぁそれは置いておこう)、確か群馬の時のトークでは興味があることについて氏は「反応」と言っていた(参考:http://www.terrainvague.info/quotes/2009/03/post-11.html)。
 それで、その時は青山目黒でも展示をしていて、そこには確か台湾で即興的にその場にあるようなもので作った沢山の小さなオブジェ、それから路上に進行方向にモノが並べられていて、左から右へと進みながら順にそれらのモノを次のモノに組み合わせて(叩き付けたり、潰したり、投げたり、ひっぱったり、かぶせたり)進行して行く”反応していく”過程をおさめたビデオがあったと思う。
 2009年にこれらをみたりトークを聞いたりして、それまで(ループのビデオとか)each and everyとか夜のビデオとかpeople doing stuff(だっけ?)とか、割とどこにでもある(否、ありそうな)状況から不思議な/奇妙な瞬間(いや、複雑な時間/空間の経験、というべきか)を発見し記録する人だと思っていたけれど、むしろ「そういった事象に人、或は事物がどのように「反応」を返しできごとが生成するのか」といったところに興味が移行いるのかしら、と思って妙に納得したのを憶えている。
 で、LAで2年間たって「青山目黒で個展」←イマココ、と、まぁ私の理解ではこういうことになったわけだ(もちろん、その間artitの連載とか、podcastとか、それからtwitterもチェックしていたけれど)。
 感想としては「うーん、そっち行ったか」という感じが強い。言うまでもないが、つまり「(反応っていっていたのは)うーん、そっちに行った(展開した)のか」という意味である。これは、とりわけ葉っぱ売るビデオについて。筋として大変分かりやすい、むしろ分かりやす過ぎる。もちろん、引き合いに出すだけで十分なはずのデビッドハモンズとつげ義春を、なぜか鉛筆で模写しなおすあたりの過剰さとかに、一朝一夕に解釈できない部分があるのだけれど、とはいえ些か分かりやす過ぎやしないか。チーズとゼリーも同様。だが、それはまぁそれで真摯な感じもして良いのかもしれない。(この傾向は、写真だけしか見ていないけれど、コーヒーを車の屋根の上に乗っけて走る作品、などからも薄々感じていた)
 個人的に最も解せないのは、葉っぱの真摯なビデオを流しているその脇で、他方そこはコマーシャルギャラリー”らしく”、写真等を作品として普通に(結構なお値段で)「売っている」ということだったりする。もちろん別に売るのがダメだみたいな話ではないし、チーズ写真も同じものがチープなコピー紙に拡大プリントされて”販売作品”の後ろやとなりにベタベタと貼ってあるという配慮もあって、ちゃんとしてんなぁとは思うが、ギャラリーの隅に所謂あの赤丸シールが貼ってある”例のあの紙”(そして”あの紙”には遊びが無い)が見えてしまうと、ちょっと醒めた。ビールケースとか酒の空き瓶とか、変な木っ端とか、あるいは借りてるはずのモニターとか或はギャラリー自体も、全部売ってしまえば良いのに(が、それも凡庸か)。いずれにせよモノを売るっていう仕組みを作品の中に構造として取り込んだならば、その作品自体を売るという時に、何かしらの工夫がないとまずいんじゃないか。
 一方で、展示替えというか、インスタレーションというか、展示の方法自体はとても面白かった。壁に残されたねじ釘(かつて何か吊るされたらしい)やテーブル、ビールケース及びその他の配置、それからかつてのそれらのモノの配置写真がこれまたチープなコピー紙で壁にべたべたと。そこから空間の推移を推測し、配置されたモノの位置関係の変化を予測すること(かつてこうであった⇄これからこうであるかもしれない)は大変面白かったし、最終日前日twitterでの答えあわせ的な展開もあいまって楽しかった。正解率は30%ほどだったけれども。
 とまぁそんなわけで、やっぱり個人的にはコマーシャルで見るより美術館とかで見る作品の方が好きだわ、ってことで横トリには行こうと思う。

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2011/07/18

REC.#01(transparency,media,time-space)

Terrain_Vague Manabu KANAI
メモ: コーリン・ロウはいつも遅れて読まれる│今村創平 10plus1.jp/archives/2004/…
Terrain_Vague Manabu KANAI
メモ2: 「物質としての透明性、現象としての透明性」 siritai.jp/lecture/artcri…

carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague まずはここから。 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de…

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben hahaha、ルーバーで例えちゃうと完全にリテラルの方になっちゃうね(笑)。 グリーンバーグ→フリード→クラウスの流れをそれなりに押さえようという涙ぐましい努力よ。ロウの透明性は、フリードのテーブルピース評と如何にかかわるのだろうか?

carmioben tsuyoshi suzuki
僕はロウのしか読んでないし、よくわかんない。だから作品を見て帰納的に類推するしかないのだが、レジェとかコルビジェの絵を見る限り、彼らが壊そうとしているのは前後関係とか上下とか瞬間性といったコンベンションなので、そのジャンルのコンベンションが強く了解されていないと、ただの変な絵だと

carmioben tsuyoshi suzuki
モホリナギとレジェの映画を比較してみる企画。 youtube.com/watch?v=fNt39W… youtu.be/9SgsqmQJAq0

carmioben tsuyoshi suzuki
映像を見ると、モホリナギは多重露出とか影とかを撮っていて、レジェはブランコに乗る少女を天地さかさまにとったり、レンズの空間を歪ますことに傾倒している。

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben YES.コンベンションというのを、僕はメディウム由来の記法と解するが、それらを壊す、というか異なる記法を同居させることを可能にすること=それは現象的な透明性によって担保される、ということなんではないかと思ったりします。(フリードの件は現在目下勉強中なのよね)
Terrain_Vague Manabu KANAI
一応「モダニズムのハード・コア」から引いておくと、「モホリ-ナギやグロピウスのリテラルな透明性と、本来は異次元に存在するものが同時に近くされるときに立ち現れる、レジェやル・コルビジエのフェノメラルな透明性(浅田)」というように区別されている。存外わかりやすいと思うが。

carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague 「本来は異次元に存在するものが同時に知覚されるときに立ち現れる」って状況がイメージできない。それが絵画面に立ち現れているのだとしたら、それはコンベンションによって引き起こされているのではないか。

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben いや、通常は時間を伴うことになると思う。このコンベンションで絵画面を見るが、次の瞬間に別のコンベンションで……という連鎖(点滅)。 が、しかし、フリードはこの時間を一挙に経験させること(瞬間に収斂させる)を主張してるっぽいのね。根拠不明だが。
Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben んー、例えば絵画におけるメディウムとしての塗り付けられた絵具が、図像であると同時に物質でもあり、且つその画面上での価値は他のタッチによって相対的に決定される……というような、複数の次元に引き裂かれている、ってなことかと考えていたけれど、僕は単純化し過ぎかな。

carmioben tsuyoshi suzuki
@Terrain_Vague うん。だまし絵的な意味なら分かるんだけど、あるいはキマってる状態に見える何かなのかなともとれるわけで、

carmioben tsuyoshi suzuki
フロイトが記憶の比喩として、ある古代からの都市の場所にあまねく時代の建造物が同居している状態を夢想したり、ベンヤミンが都市の中の別の町の街路名(例:ローマのスペイン広場)はハッシシを吸引したときの感覚に通じるとか言ったりという、なんか常識が解体した時に見えてしまう何かかと思ってい

carmioben tsuyoshi suzuki
たので、分裂症を過度に礼賛する現代思想のそういう領域は自分を不健康にすると思って遠慮しています。

Terrain_Vague Manabu KANAI
@carmioben まぁ症例的にいえば、統合失調症ということになるわけだけれど。(つまり捨象されるべきものが、捨象されない)

carmioben tsuyoshi suzuki
そういう人々は、本来は別であるものが同じ場所に現れるというような症例が日常的にあるわけだから。

carmioben tsuyoshi suzuki
ヤバイ方向に行かないように、あくまで作品分析的に行くしかない気がする。キマッてたらレジェの絵とか見て「あー、この感じなんだよね」とか思って納得できるわけなんだか。

Terrain_Vague Manabu KANAI
だが、引き裂かないとコンベンションは壊れてくれない。

carmioben tsuyoshi suzuki
で、絵画のコンベンションは弁証法的に発展するのか、作者の恣意的な選択によるのかというのが論点になるのではないか。

Terrain_Vague Manabu KANAI
絵画面に導入されるコンベンションは、メディウムの抵抗(制約)から帰納される、と主張してみたいが、どうだろうか。
Terrain_Vague Manabu KANAI
いかん、深夜に盛り上がりすぎてしまったかもしらん。もう寝んべ。

carmioben tsuyoshi suzuki
うん。答えなどないからなぁ。おやすみ

Terrain_Vague Manabu KANAI
続きはまた今度やろう。モンジュの知恵。結構聞きたいことが色々たまってんだわ。おやすみー

carmioben tsuyoshi suzuki
レジェの映像を音を消して見ると何故か懐かしい感じになるわ。 どうやら対位法的に作ってあるようだ。上下、左右、時間軸上の反転など。 各カットの素材とそれに対する操作を記述していくだけでも、いろいろ見えてくるだろう。

Terrain_Vague Manabu KANAI
フェノメナルな透明性は理念的なものでしかない、っていう結論だけは何とか回避したいなぁ
Terrain_Vague Manabu KANAI
あ、あと昨日「帰納」と書いたが、ありゃ演繹だわ。間違い。
Terrain_Vague Manabu KANAI
汝、公理を与えることなかれ。
Terrain_Vague Manabu KANAI
否、与えられることなかれ、かな。
Terrain_Vague Manabu KANAI
演繹法で制作プロセスを導出しようとすると、結局のところ起点となる公理を無根拠に(或いは帰納法で)設定するしかないという点にたどり着いてしまう。ここでカント的な時間・空間の有限性をアプリオリな条件として使ってこの問題を回避するというのは些かご都合主義に過ぎるのかも。
Terrain_Vague Manabu KANAI
メディウムという存在のアプリオリな条件として時間・空間が要請される、と考えてみても……なんか色々都合よく考えている気がするなぁ。
Terrain_Vague Manabu KANAI
例えば上下左右のない宇宙空間、或いは光速より早く運動する台座という条件のもとで、作品の形態はどの様に決定されるべきか。
Terrain_Vague Manabu KANAI
メディウム・スペシフィックということも、時間・空間が前提条件として与えられなければならない(のだろうか……?)
わっかんねぇーーーー!

carmioben tsuyoshi suzuki
メディウムという言葉を制作に即して具体的に考えれば、それは可塑性のある物質ということになろう。のばしたり、きったりへこましたりできるような。それで意図に対して中立に見えるけど物質的な残余を残していてそれはエラーの可能性を生むと。

carmioben tsuyoshi suzuki
放送メディアとかにも言えることだけど。

carmioben tsuyoshi suzuki
それは所与の条件で、いわばイデアが物質に映される時の欠損である。

carmioben tsuyoshi suzuki
これをヴィーコ風に考えると、verum=factum真実は作り変えたものに置き換えられる。幾何学がわれわれにとって真実なのは我々がそれを作っているからである。

carmioben tsuyoshi suzuki
そしてそれが自然の制作(メディウム)に移れば移るほど確実性から遠ざかることになる。幾何学>建築、絵画>自然学

carmioben tsuyoshi suzuki
なぜなら私たちは自然=人体を作ってはいないからである。

carmioben tsuyoshi suzuki
随分プラトン的な考えだな、と思うがもともと製作というのは、そういう二元論的な概念でしょう。たぶん。 だから町工場のおっさんが自分の会社を製作所というのは正しい。自分の知っていることしかやっていない。

carmioben tsuyoshi suzuki
メディア・スペシフィックということはメディアとそれを定着する方法に由来する不確実性に積極的な意味を与えなければいけないのではないか。

carmioben tsuyoshi suzuki
だからメディウム特有の粘り、重さ、粗さ、自由さのようなものにとりわけ注意する。

carmioben tsuyoshi suzuki
メディウムとは理念を担うもの。そしてそれは人間の尺度に加工された自然なのではないか。籾殻を除いて柔らかく炊き上げられたご飯のように。

carmioben tsuyoshi suzuki
理念とメディウムの二元論。メッセージにたいする声の響き。モデル(光)にたいする粘り気のある絵の具。それらは自由に分節できる構造になっている。

Terrain_Vague Manabu KANAI
さて。メディウムは中立性に見えて、その実、物質として現れる時にまさに物質であるがゆえにエラーが生じる(中立性が損なわれる)というのは、まったくその通りで、いわば各メディアに固有な欠損の様態から自然を模倣する形式を作ることが制作ではないだろうか。
Terrain_Vague Manabu KANAI
で、メディアの中立性欠損という話をする時、やはりそれらが時間的・空間的な世界に属していることを前提条件としなくてはならない。
Terrain_Vague Manabu KANAI
例えば、不可避に選ばざるを得ないメディアとしての僕の体は、ご飯も食べなきゃいけないし、寝ないと死んじゃう、みたいな。 或いは身長や手足の長さ、というような条件(制約)。
Terrain_Vague Manabu KANAI
あまり詳しく知らないけれど、普通バレエやダンスで現れるのは中立的な身体で飯を食ったり寝たりはしない。 アイドルはウンコしない。

carmioben tsuyoshi suzuki
時空間ももちろん理念的なものである。それが考えられる以前から自然は今と変わらずに存在していただろうから。

Terrain_Vague Manabu KANAI
虚の透明性については明日にまわそう。次は、時・空間は理念的だとしても人間にとって所与の条件、というところから始めたい(悟性=カテゴリ、という意味で)。だが、そこに定言命法をぶつける、という自由((善)意志)。
Terrain_Vague Manabu KANAI
時空間を前提としたうえで、メディウムに与えられているコンディション。一方で、私がメディウムと出会った時に(知覚、或はそれを超えて)そこに何かを見るという事件(事故)。これを原理としてモノを作ると、コンベンションは壊れざるを得ない。
Terrain_Vague Manabu KANAI
他者への愛は、定言命法として与えられる(そういう意味では、これは私に選べることではない)。これを時空間(因果律)の世界に属する他者にぶつけていく、というかたちで自由(の実践)が保証される。(……のだろうか?)
※ここ数日の会話。carmiobenは(たまに)示唆に富むことを(というか、物事を分かりやすく)言うことがあって、私のdomain内にも一応記録しておくことにした。本人の許可などとっていないが、知ったことではない。

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2011/07/08

IN-MOTION

MOHOLY-NAGY IN MOTION on 20110625
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/nagy/index.html

RGB、影(射影)、写像(写真)、そして時間(in-motion)。

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2011/06/27

PAULKLEE

http://klee.exhn.jp/
パウルクレーについて書いておくつもりだったが、すっかり忘れていた。メモとしていくつか記しておく。
今回の展覧会では制作プロセスに主眼がおかれて文脈が作られていたこともあって、クレーが絵画に持ちこもうとしている問題系が非常に分かりやすかったように思われる。
それは有り体にいえばPhotoshop的論理とIllustrator的論理の統合をはかるということなのだが、そこに運動(及び時間)が関わるということである。分かりにくいので補足する。
対象の像を絵画平面上に定着させる論理として、基本的には色(光)として記述するか、形体(線)として記述するか、という問題があり、それらは基本的に排他的なシステムとして閉じている。ラスターデータ(Photoshop)とベクターデータ(Illustrator)は基本的には相容れない。
これを如何に統一するかということが近代絵画の引き受けている大きな問題系の一つであると思うのだが、クレーの場合はこれらの異なる記述体系の統合をはかる際、「如何にそれぞれの異なるパラメータを接合し溝を埋めるか」ということではなく、そのまま「異なるパラメータをもつデータを重ねあわせた際に、如何に各々の体系が破れる(破綻する)のか」という点をフックにして制作をしているように思われる。
基本的には閉じている体系を異なる体系と衝突させることで、破綻する瞬間を作り出す。そしてその体系の破れをフックに、切断、回転、置き換え、接合、というような静止した平面自体を破る契機として利用しているのではないか。
では、その静止した絵画平面を破ることによって導入しようとしていることは何か。それは運動、時間(対象を見るという制作者(クレー)の運動、それに要する時間、及びそれらが記述された絵画平面を見るという(鑑賞者の)運動、それに要する時間)ではないか、というのが現段階での私の予測である。
※カタログを熟読できていないので、あくまで作品から引き出せたものだけで考えてみた現段階での予測であるが、あながち間違ったモノでないことを願う。

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2011/06/20

技術について

—-この絵のもとになっているのは何ですか。
 出発点は裸体そのものです。寝たり、立ったりしているだけの古典的な裸体とは違った裸体をつくること、そしてそれを運動の中に置くことです。(……)『階段を降りる裸体』において、私は運動の静的なイメージを作り出そうとしました。運動はひとつ抽象、タブローの内部で分節された演繹であって、現実の人物が、やはり同じ現実の階段を降りているのかどうかなどというのは、どうでもいいことなのです。実際、運動というのは、タブローにそれを合体させる観客の眼のことなのです。
(p.53)
—-『花嫁』までは、あなたの探究は持続を表現すること、図示することのうちに表されていましたね。それが『花嫁』以降は、ダイナミックな運動が止まってしまったような印象を受けます。それはちょうど器官がその機能に置き代わったようなものです。
 だいだいその通りだと思います。私は運動の観念、あるいは運動を何らかのやり方で記録するという観念すら、完全に忘れてしまいました。(……)
—-『大ガラス』のアイディアは、あなたの頭のなかでどのように生まれたのですか。
 わかりません。技術的なものであることもしばしばあります。ガラスは、支持体としてたいへっほもしろいと思いました。その透明さがね。それだけでもたいしたものだった。それから絵具は、ガラスの上に置かれれば、反対側からも見ることができるし、中に閉じこめてしまえば、酸化することもなくなります。色彩は視覚上の純粋さを可能なかぎり長く保ち続けるでしょう。こういったことすべてが技術上の問題を作りあげ、それもまたそれなりに重要なものだったのです。
 さらに透視画法もひじょうに重要なものでした。『大ガラス』はまったく無視され、けなされていた透視画法を復権しようとするものなのです。透視画法は、私のもとで、完全に科学的なものとなったのです。
—-写実主義の透視画法ではありませんでしたね。
 はい。数学的な、科学的な透視画法です。
—-計算に基づいていたのですか。
 ええ、それと次元に。それが重要な要素です。私が中に入れたもの、それが何だったかわかりますか。私は歴史や、よい意味での逸話を、視覚的な表現に混ぜ合わせたのですが、視覚性、眼に見える要素には、普通ひとがタブローに与えているほど、重きを置きませんでした。私はもうあまり専念する気はなくなっていたのです、視覚的な言語には……
—-網膜的な
 それゆえ網膜的な。すべてが観念的なものとなりました。つまり、それは網膜とは別の何かに依拠しているのです。
(pp.72-73)
—-技術的な問題以上に、あなたが取組まれたのは、科学的な問題でしたね。比率や計算の問題。
 すべての絵画は、印象主義以来、スーラも含めて反科学的なものになっています。それで私は科学の正確で厳密な面を導入することに興味を持ちました。(……)私がそれをしたのは、科学に対する愛からではありません。反対に、むしろ科学を、おだやかで軽い、取るにたらないやり方でけなすためだったのです。でも皮肉なものです。
(p.74)
—-そんなにわずかでしょうか。あなたの数学の知識には、あなたが科学的な教育を受けてこられなかっただけにいっそう驚かされます。
 いいえ、そんなことは全然ありません。その頃のわれわれの関心の的だったのは、四次元でした。『グリーン・ボックス』の中には、四次元に関するメモがたくさんあります。(……)
 ともかく、私はそのころポヴォロフスキーが書いたものを読んでみようとしました。測度とか直線とか曲線とかを説明したものです。私が仕事をしているときに、そういったものが私の頭の中で働いていました。『大ガラス』に計算を持ちこんだりはしませんでしたがね。私は単に、投影、不可視の四次元の投影というアイディアを考えただけです。四次元を眼で見ることはできませんからね。
 三次元の物体によって影をつくることができることはわかっていましたから、—-それはどんな物体でも、太陽が地面につくる射影のように、二次元になります—-、単純な知的な類推によって、私は四次元は三次元のオブジェに射影されるだろうと考えました。別な言い方をすれば、我々が何気なくみている三次元のオブジェは、すべて、われわれが知ることのできない四次元のあるものの投影なのです。
(pp.75-76)

※この後、ルーセルについて「方向、あるいは反ー意味(アンチーサンス)の方向で何かを試みることができる、という考えを私は彼から吹込まれた」(※given)との記述が見られる。
(『デュシャンは語る』 マルセル・デュシャン×ピエール・カバンヌ(岩佐鉄男 小林康夫 訳) ちくま学芸文庫 1999年)

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