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2010/09/22

note-02《来るべき個展に向けて》

復習

【第一アンチノミー】
テーゼ:世界は空間・時間的に始まりを有する(有限である)。
アンチテーゼ:世界は空間・時間的に無限である。
テーゼの証明:もし世界に時間的な始まりがなかったとしよう。[反対の想定]。そうすると、与えられたどの時点を取ってみても、それまでに無限の時間が経過していることになる。現在という時点を取ってみてもそうである。しかし、無限な時間とはけっして完結しえない時間をいみする。ところが、われわれは「現在」という完結した時点においてある。ゆえに、これまで無限の時間が過ぎさったということはありえない。世界に時間的始まりがないという想定は不可能である。[反対の不可能性]。すなわち、世界は始まりをもつ[結論]。
アンチテーゼの証明:もし世界に時間的な始まりがあるとしよう。[反対の想定]。すると、世界の始まりの前にものが存在していない時間があったことになる、すなわち空虚な時間があったことになる。しかるに、空虚な時間からは、およそ物が生起するということは不可能である。なぜなら、そこにおいては非存在が現実存在に転じる(無から有が生じる=生起する)なんらの条件も見いだしえないからである[反対の不可能性]。ゆえに、世界の中では物の多くの系列が始まりうるにせよ、しかし世界そのものは始まりをもたない。世界は時間的に無限である。[結論]。
テーマは絶対的全体としての世界、とりわけそれが空間・時間的に有限であるかということであった。空間と時間が主観的であり、観念的なものにすぎないとすれば、いずれにせよ世界は量的にあるがままの姿で与えられてはいないことになる。逆に、空間と時間が世界に固有な実在的なものであるという暗黙の前提から、アンチノミーが生じたのである。しかし、それ自体として量をもたないものに、どんなに量(有限か、無限か)を問題にしようとしても、問題にならない。それは、マネキン人形を相手に、「男」か「女」かを問題にするのと同じことである。

(石川文康 『カント入門』1995 筑摩書房 pp.032-033、pp.080-081)

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2010/09/22

note-01《来るべき個展に向けて》

§1 第一に、その作品(対象物A’)を見る(或は聴く)過程において、見る側のA’を認識するフレームワークはダイナミックに更新されなくてはならない。
§2 その実現可能性は、記述対象世界(A)を、A’化(記述=エンコード)する際の技術的な方法論にかかっている。そのような記述形式をきっちり構成すること。
§3 なぜ、ペンはヘアピンに、ケースはアジャスターになり得たのか。これは必然性(因果論)として記述可能か?

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2010/08/28

NAZO NO musique

http://www.youtube.com/watch?v=aVRvVFTo5KA

『じんじろげ』 森山加代子


死んだ祖母が歌っていた謎の歌は実在していた。私と姉が教わっていたのは、おそらくいい加減な祖母故、ところどころ違うのであるが、この曲であることは間違いない。
語感から、第二次大戦中占領下に東南アジア周辺の原曲ではと予測していたが、原曲はインドの「ヒラミルパニア(雨期礼賛の歌)」のようだ。

Hila mil pani a jori nana diya
Angla nache Bangla nache Nache boutel cana
Upel sito men pu kali lauba balti cana
雨が降ってきた 忽ち川と流れる
雨が降ってきた 忽ち川と流れる
イギリス人も踊る ベンガル人も踊る 踊れよ 瓶には酒が
卓上の黒い長い皿には御馳走が

これが今、私の手もとに届いたということをどう考えるべきか。

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2010/08/06

today is the genbaku day

・肝に銘じておくこと。
1.ある心的現象が「決して言葉で表せない」等と言われることが度々ある。それらは、しばしば「実在性は確信するが、その根拠は示せない」ものとして表白される。
2.しかし当の心的現象は「言葉で表せない」ものとして指し示されるが故に実在性を得ている、つまり特定の心的現象として弁別可能であるという事実が、これが「繰り返し生成されうるものであること」を保証している。
3.繰り返し生成されるものであるという事実は、それがアルゴリズムとして記述可能ということを示している。
4.従って、言葉に出来ない感情だとか印象だとか、心的な現象は、結局のところアルゴリズムとして記述可能である。
(5.)よって印象や確信などは、(根拠などなくとも、或は本人が本当はそうは思っていなくとも)アルゴリズムが成立しさえすれば生成される。
*ただし、アルゴリズムは動的に再編成されることがあるようだ。この再編成について関数的に記述可能か否かは不明である。

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2010/07/21

in limbo

In Limbo
http://www.youtube.com/watch?v=tY_DUtRfuqA&feature=fvw

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2010/07/16

archive materials about sees

ARCHIVE MATERIALS

さしあたってseesを聴き直してみたので、気になった部分を書いておく。
 また、時間があるときにレコーダーを手放してはならない。常に持ち歩くこと。
気になった点
足し算の問題
 順序の処理だけでなく、足し算的な方法をとっていたのは覚えているが、この方法はあまり有効ではない気がしている。というのも、足し算的な複雑性というものは、簡単にそれをラッピングしてしまうような認識・認識論が成り立ってしまうからだ。
 足し算的複雑性は、完全であるという状態が常に自動的に更新されてしまうものだった。完全性はいつでも自明のものであり、最前線に認識される。
 対して、引き算的な方法では、もう少し複雑であるように思う。というのも、引き算される前の完全な状態というものが、簡単には復元(想像)できない。何かが不在だと思うための、そもそもの完全性は自明のものではない。つまり、引き算的複雑性とは、何かが欠けている(引き算されている)と認識してしまう状況にいなければならないうえに、そのための完全性も認識していなければならない。完全であるという前提(しかしこれは自明ではない)と、その欠落が認識されなくてはならない。
 要は、足し算的複雑性は、この場合、ぜんぜん複雑ではなく、デレンジメントもしくは多義性を持っていなかったのだ。
 制作当初より、疑念があったのやはり問題があったからなのだった。周波数の足し合わせの延長で現象を捉えていたのが浅薄であった。足し算ができるとしても、単純な足しあわせではないのかもしれない。
次に
類似・近接
 意識的に制作していなかったが、音の聞こえ上の類似を問題にしているような箇所あった。よく似ている別の音を前後に配置して順序良く再生しているような箇所である。これは、あまり意識的におこなっていなかっただけに、なにかの萌芽のようにも思われたので、さらに拡大して考える必要があると思われる。
 
最後に、
言葉
 言葉における意味にとらわれすぎている感があり、対象はあらゆる音であったことを忘れてはならない。これがうまくいくためには日頃からの録音が必要であると強く感じた。
気になった音
遠くで人の声がする音が面白い。校庭の向こう端のテニスコートで女の子たちが何か声を出している音だ。monoでも、こういった音の性質は幸か不幸か、ある程度保存される(空間性が全く分からなくなってしまったりはしない)。

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2010/07/11

ROMAZI NIKKI

 一方,キンダイチ君がシットぶかい,弱い人のことは,また争われない.人の性格に二面あるのは 疑うべからざる事実だ. 友は一面に まことにおとなしい, 人のよい, やさしい, 思いやりふかい男だとともに, 一面, シットぶかい, 弱い, 小さなうぬぼれのある, めめしい男だ。

 予は ただ安心をしたいのだ! —-こう, 今夜はじめて気がついた. そうだ, まったくそうだ. それに ちがいない!
 ああ! 安心—-なんの不安もないという心持は, どんな味のするものだったろう! ながいこと—-もの心ついて以来, 予は それを忘れてきた.

 ’つまらなく暮らした!’ そう思ったが, そのあとを考えるのが なにとなく 恐ろしかった. 机の上はゴチャゴチャしている. 読むべき本もない. さしあたり せねばならぬ仕事は 母やそのたに手紙を書くことだが, 予は それも恐ろしいことのような気がする. なんとでもいいから みんなの喜ぶようなことを いってやって 哀れな人たちを なぐさめたいとは いつも思う. 予は 母や妻を忘れてはいない, いな, 毎日考えている. そしていて 予は ことしになってから 手紙1枚とハガキ1枚 やったきりだ. そのことは こないだのセツコの手紙にもあった. セツコは, 3月でやめるはずだった学校に まだ出ている. 今月は まだ月はじめなのに, キョウコの小遣いが 20銭しかない といってきた. 予は そのため 社から少しよけいに前借した. 15円だけ送ってやる つもりだったのだ. それが, 手紙を書くがいやさに いちにち ふつか と過ぎて, ああ……!  すぐ寝た.

 予は いま予の心に何の自信なく, なんの目的もなく, 朝から晩まで 動揺と不安に おったてられていることを知っている. なんのきまったところがない. このさき どうなるのか?
 あてはまらぬ, 無用なカギ! それだ! どこへもっていっても 予のうまくあてはまるアナが見つからない!
 タバコにうえた.

啄木の日記は複雑に組み上がっている。
対して、多くの小説や映画(や美術)は、なぜ第三者的な記述に落ちて行くのか?
そういった「語りの形式」自体が、記述体系として程度が低いといったレベルにとどまるどころか、暴力として機能しうることに対する自戒の念はないのか。
といったところで、では複雑な世界の内側からその当事者として対象を観測し記述した場合、それは(つまり日記は)作品となりうるか。

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2010/05/19

『話』のない小説

柄谷行人『日本近代文学の起源』
VI 構成力について 〜その二 「『話』のない小説」論争〜

芥川にとって「話」は何を意味していたのだろうか。
“「話」らしい話のない小説はもちろん唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思ってゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、—-通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。”
芥川自身が絵画を例にとっているということからみても、彼のいう「『話』のない小説」がいかなる文脈で語られているかは明瞭であろう。すでにいったように、後期印象派は、まだ遠近法に属しているとはいえ、そのような作図上の均質空間に対して「知覚空間」を見出している。芥川のいう「話」とは、見とおし(パースペクティブ)を可能にするような作図上の配置にほかならない。しかし、重要なのは、たんに芥川が第一次大戦後の西欧の動向に敏感だったということではなく、また彼がそのような作品を書こうとしたことですらもなくて、西欧における動向を日本の「私小説的なもの」と結びつけてことである。
(……)
芥川がみたのは、告白か虚構かというような問題ではなくて、「私小説」というものがもつ配置の在りようだったといえる。芥川は、それを中心をもたない断片の諸関係としてみたのである。
(pp.224-225)

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2010/05/18

チェルフィッチュを見に行こうか、チケットはどうやらまだあるらしい。しかし、どうなのだろう。彼らの演劇はビデオで見たことがあるのだが、そして興味深いことは間違いないのだが、一方でビデオではなくその場で見る必然性があるのかと問われると疑問だ。というより、私は演劇を見ると、どうも舞台上の人々がバカに見えてしかたないのだ。ダンスやバレエは違うのに。台詞があるからだろうか。いや、チェルフィッチュの面白さは台詞とそれを発する身体にあるのではないだろうか。……とかいっていたら、夜にこんなのを見てしまうわけだ。

@おかざき乾じろ

チェルフィッチュ は徹底的に、演劇=舞台の本質をついていた。
3部構成が構造的に弁別されすぎているキライがあった(身体の動きも語りの特徴)が、それは演劇として成立させるための賭けとして成功していたと思える。 約11時間前 webから
(当たり前の事を書くならば)、まず基本として、ある人間の行為を演技か/まじか、で弁別するのは、行為する本人の意図(自由意志)によるかどうか、という基準で、行うことはできない。ということがある。 約11時間前 webから

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2010/05/17

メイキング『悪と戦う』まとめ 2

@takagengen

今日の予告編1 今日、子どもたちは、奥さんに連れられて、多摩センターまで、奥さんの友だちのバンドの野外ライヴに行ってきました。ロック+パンク+ジャズなんだけど、しんちゃんはおおいに「ノッテ」、頭をふって楽しんでいたそうです。疲れたんですね、さっき寝かしつけたら5分で爆睡でした。
予告編2 今晩は、写真と小説、それから、小説につきまとう「真実でなければならない」という幻想の理由について話すつもりです。まだ一度も書いたり話したりしたことがないことが多いので、うまくいくかどうかわかりません。でも、いいでしょう。ダメだったら、またやってみるだけの話です。 4:28 AM May 9th webから
予告編3 それから、きわめて個人的なことも一つ話したいと思っています。でも、しないかもしれない。スタートは決めていますが、どういうルートをたどり、どんな結末になるかはわかりません。おそろしい、でもわくわくするような感じです。確かに小説を書く時と似ているかもしれないな、では24時に 4:32 AM May 9th webから
メイキングオブ『「悪」と戦う』9の1 久しぶりにスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読み返して、以前読んだはずなのにすっかり忘れていたことにぶつかった。それは、ロベール・ドワノーの写真に関するエピソードだ。それはたぶん誰でも一度は見たことのある、ものすごく有名な写真。 5:02 AM May 9th webから

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