「マイマイ新子と千年の魔法」8日間限定レイトショーが連日満席だったのを受けて1月からアンコール上映開始
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091228_maimai_shinko_encore/
映画の存在を教えて頂いて、ラピュラ阿佐ヶ谷に2度行くも「申し訳ありませんが、今日の分のチケットは……」という台詞を、”いかにもラピュタ阿佐ヶ谷的な”黒縁眼鏡の青年に宣告され、まして2度目についてはチケット販売開始の40分後だというのに前日とまったく同じ台詞が同じ青年の口から吐かれたことに、おや、これはいわゆるデジャヴというものではないかとさえ思った程で、いや、とにかく、もう一度チャレンジしない手はないだろう。
年別アーカイブ: 2009年
2009/12/30
again, an again, a agai , a agai , a a ai ,
2009/12/29
能動的一分半
それらの構造は、そもそもそれが流通する際のプラットフォームから逆算されて決定されている。……ということをことさらネガティブに喧伝する人がいるが、じゃあ既成のプラットフォームに一切準拠せずに「自由に作られたもの」など、かつてあったのだろうか。
おまえら、すでに骨の髄までコンテクストに染まってんだよ。
「実際はね、過去の映像に違う索引作ってるだけ」 via タモリ via ”ワラッテイイトモ、”
春夏冬中(先日終了。そうそう、2009は新房の年であった)
能動的三分間
あと、偶然見つけたもの。やはり考えることは同じだ。
http://genbaken.com/essay/kawakami.html
2009/12/09
ZUKYUUUUUUUUUN!!!!!
さすが岡崎乾二郎!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!
http://www.mot-art-museum.jp/collection/images/200903/mc200903.pdf
すごかった。時間が全然足らなかった。そして疲れた。
もう書くのも疲れるからいやなんだけれど、つまり、作品の形状を記述しようとおもえば、単にキャンバスに(時には下地さえない)メディウムを混ぜたアクリル絵具をペチャーっとやっているだけ……ということになるのだけれど、おそらくそれがその形状を与えられる上で適用されたであろう枠組みの重層性が深過ぎでやばいのだ。下手すりゃ溺れる深さ。
順に行けば、「あかさかみつけ」は色々言われているのでもういいとして……
例えば中央の展示室の近年のでかい絵画は、明らかに2枚が組作品になっている(隣り合った2枚の絵画平面上には、(おそらく)律儀にマスキングまでして同様の形態が描かれている)にも関わらず、2枚を組としてみるとどう考えても無理があるというかそれぞれが独立しているように見えてしまったりだとか、或は同一平面上のmass感とか色とか図像っぽさとか質感(っていうか透明感?)がそれぞれ解釈してくれーという糸口的な物をチラ見せするくせに4手先ぐらいで全部手詰まりだったり……とおもいきや、別の解釈の糸口とふいに接続されていたりだとか。
そしてゼロサム。随分前に偽日記の古谷某氏が批評空間に「岡崎作品を見ていれば、彼がそれはもう近代絵画ヲタクであることがわかる、そこここにセザンヌが、マティスが、ボナールが……と」的なことを書いていた気がするのだけれど、まさにゼロサムシリーズでそれを感じてしまった。どんだけネタを持っているのだ、と。
最後にスロープ。若干深過ぎて溺れかけた。まだ僕には測れない部分が多い。
あげくの果てに展示室の構成が、小さな建築模型をもって示されていて…………もー、なにこれ。超疲れた。
とかいって、全部勘違いなのかもしれないですけど。勘違いも含めてオープンリミットってことなんだろうか、恐ろしや。(僕は実証主義的アプローチがあまり好きではない……というか95年に中二病を患ってからあまり信じられない。むしろ実証主義が空転する、これだ!という気持ちが先送りされ続ける(とはいえ、感触っぽいものがあることだけは理解される)作品こそ作りたいのだ)。
しばらくやっているようなので、もう数回いくことになると思う。後期もあるってことはどの程度展示替えをするのだろうか。
レベッカホルンも見たけれど、やっぱり頭がオカザキの頭になってしまって切り替えが大変だった。クランクって色々な動きを作り出せるのねー、というのは結構勉強になりました。ひとつひっかかっていることがあって、それはあの有名なグランドピアノがグヮシャーン!というヤツなんだけれど、以前イギリスに言った時TATEで見た(2002年のこと)と思っていたのだけれど、今日キャプションを見たら制作が2006と書いてあって、あれは何だったんだろう?しばらく見ていたら、やっぱりグヮシャーン!で、あーこれこれ、と思った。デジャブか何かだろうか。
マルジェラ師匠はもはや時間無し。すみません。これは次回だなー。
2009/12/02
THE END OF “AXIS of EVIL”
http://news.google.com/news?client=safari&rls=en&q=平山郁夫%E3%80%80逝去&oe=UTF-8&um=1&ie=UTF-8&hl=ja&ei=5nAWS46WC4uUkAWFlYH_Bg&sa=X&oi=news_group&ct=title&resnum=1&ved=0CA4QsQQwAA
冥福は祈りません。祈るわけないじゃん。
死人に鞭打つようだけれど、これを機にマスメディアはおそれることなく盛大に叩くべきだと思う、画壇システムも含めて。これでこの国の「美術」が正しい姿を取り戻してくれると良いのだけれど。
浅田を引くまでもなくまでもなく、この人、普通に下手だよね……っていうか、ヒロヤマガタ(笑)、マックナイト(笑)、ラッセン(笑)のラインに、東山魁夷(笑)と平山郁夫(笑)を並べてもたいして違和感がないというのが、逆にスゴい。
ボルタンスキーの「最後の教室」がお化け屋敷に見えてしまうっていうのもそうだけれど、やはり”西側的な意味での近代”は、この国にはそのまんまのカタチでは存在しない、というのは否定しようがない。(とはいえ個人的には、近代そのものがない、という程単純ではないと思います。)
だから浅田の言う、カウンターとしての村上の”極東土人の居直り戦略”は独り相撲だ、というのはその通りだと思うし、僕としては近代があったとしても、カウンターという戦略自体がもはや無意味で唾棄すべきものだということも言い添えておくけれど……でも、ちょっと待った!
もしかしたら、そういう意味で平山先生の作品(笑)が、村上などに先立っておこなわれた”ニッポンのラディカルで反体制的なマンガの真似ごと”だったのかも……ということは、まさか……あるのだろうか!?
2009/11/30
シ・ワ・ケ・!
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/47Il0WSmBUZ8JTtxQkHh
先日、お呼ばれした渋谷のレストランでの結婚パーティの際にK氏とも話したのだが、文化庁予算の仕分けの件。
WGの判断も概ね正しいし、サワラギの論も正論。まぁその通りですよ。
こういった事業は(たぶん海外と比べても少ないんだろうけど)金は突っ込んでいて、且つある程度つっこまなきゃいけないというところまでは理解されているんだろうけど、そもそもリソースは有限だし、現状それが効果的なかたちで生かされてるかどうかは分からんのは事実なので、ベターな方向へ抜本的に考え直しということになれば良い。今のところ、本当にお金が必要な人にまわって来ていないのだから。
WGのコメントも……
●芸術は自己責任。日本独自の洗練された文化レベル・芸術性が通用するのであれば、しっかりしたマーケティングで興行可能。
●人材育成は不要。各コンテストの副賞等で有望な人材は留学している。
とかは、あまりにモノを知らな過ぎなんじゃないかと思ったりするけれど、
●事業対象者のフォローの仕組みと評価の仕組みを構築してから今一度実行。事業自体は重要と考える。運賃のコストの見直しも必要。
●分止まりを含め、何を目標とすべきか。フレームワークそのものを先に作るべき。ゴール設定がメジャーメント可能でないので評価できない。ただし、芸術家支援そのものはしっかりやるべき。
とかは、本当にごもっとも。
有限なリソースの分配こそが行政なのだから(従って「敵を殺せ」でもあるわけだけれど)、産業的に回収を見込める(と思い込んでいる)”文化庁冬のメディア芸術まつり(笑)”とかいう本当に下らなく且つ痛いイベントにも金をつっこみたくなるのだろうが、それは本来経産省とかから出るべき金なのであって、文化庁からは(額自体は少なくていいから)そもそも資本主義的フレームワークを度外視しないといけない「美術」(というか広義の文化)にお金を回してもらいたいとフツーに思う。
そういった美術が行政によって「それは敵だ、敵を殺せ」となり、また有権者によって承認されるのならば、それはそれで自由だから結構ですが、私はその社会から下りる自由を行使します。
あ、あと蓮舫はやっぱり可愛い。
2009/11/16
感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?
小熊英二 『1968』
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/1968.htm
http://www.amazon.co.jp/1968%E3%80%88上〉若者たちの叛乱とその背景-小熊-英二/dp/4788511630
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4788511649/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4788511630&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0C7G78PK9M77FPQWJ9TH
超欲しい。サンタさん、今年はこれが欲しいです……1冊7000円って。これも資本主義がいけないと言わざるを得ない。
腹いせに『腹腹時計』でも読むしかない。
都市ゲリラ。おとしまえをつける。浴田さんはまだ栃木。
http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/hara.htm
2009/11/13
Amazon.co.jp: 文学なんかこわくない (朝日文庫)のたろうさんのレビュー
http://www.amazon.co.jp/review/RKGFY3N9AIEYE
読んでいなかった。でも、横国→ゲバ棒もって逮捕→収監→失語症→肉体労働→小説家だから、世代的にも高橋源一郎は絶対に埴谷雄高好きだと思っていたのだけれど。
他に具体的な言及が見当たらないから、これは見逃してはならない。
2009/11/11
井の頭公園コーポラス503、或はレンタル褌。
By Charlie 1
http://blog.szk.cc/2009/11/09/constructed-authenticity/
00年代とは、いかなる時代だったのか?様々なリソースを引用し、あらゆる角度から語ることができるだろうけど、最大公約数的な要素として「繋がり」を挙げることに反対する人はいないだろう。僕が「ネタ的コミュニケーション」(02年)と言い、北田暁大さんが「繋がりの社会性」(05年)と呼んだ、コミュニケーションの内実ではなく、接続されていることそのものが目的であるような「コンサマトリーな繋がり」が、ネットやケータイを通じて前景化し、バーチャル世界ではなく、現実世界の方を志向(大規模オフ会!)した時期だった、と。
(……)
じゃあ、この00年代のモードは、10年代にはどう受け継がれるのか?まず考えられるのは、その「分断」は、結局インチキだったのだ、僕たちは、「分断」以前の〈ほんもの〉の繋がりを再構築しなければいけないのだ!という主張だろう。
(……)
でもこれ、僕にはあまり意味のない主張に思える。「何かが欠落した不完全な関係性を、現状を変えることで完全な関係性に変換しなければならない」という論理の形式は、何も変わっていないからだ。一方は空間やメディアの設計を、他方は法や規範(教育)の設計を呼び出しているに過ぎない。
そもそも、その関係が〈ほんもの〉かどうかなんて、時間的な前後関係で変わるはずだ。昭和30年代にはあったとか、おばあちゃんの頃にはあったとか、それは歴史的な事実かもしれない。けれどそれを経験していない今の10代が「あの頃の懐かしい関係を取り戻そう」とか言い出したらそりゃダウトだろう。「ほんとうらしさ」はいつもそうやって捏造される。
(……)
空間の設計ということで考えるならば、〈ほんとう〉の繋がりを取り戻し、利用者に対して、それがどれだけいびつであるかを気付かせず、あたかも「全体性」が回復したかのように錯覚させる空間が、「よい」とされるようになるだろう。けれどもその評価に乗っていけない、いきたくないというのなら、僕は、ある定められた空間の中に「空気の読めない空間」を作るということが必要なんじゃないかと感じている。
なんだか電波な表現だけど、僕は決して「空気の読めない人のための空間」を作れと言っているのじゃない。一度は切り離された「空気の読めない」空間を、あたかもそこにあることが自然であるかのように、再び埋め込むのだ。今回の展示およびプレゼンでいえば垣内光司さんの作品は、とてもそういう意図に満ちたものだったと思う。たぶん彼の話の中では、そういう要素は結果的に抑えられていたけど。そういえばそう思って学校の中を見渡してみると、意外にこの大学にも「空気の読めない空間」はあって、そういう場所には、やっぱりたいてい個性的なたたずまいの学生が集まっている。
どうせ悩むのなら、建築家は建築家しか悩めないことで悩むべきだし、そのために、既に他の誰かが考えていることなら、それは他人の褌で相撲をとりまくればいいのだと思う。何を考えたかの前に、誰の褌を巻いたか、結局はそれが問われるのじゃないか。
By Charlie 2
http://blog.szk.cc/2009/10/23/know-your-enemy/
({By 茨木のり子} By Charlie)
私の敵はどこにいるの?
君の敵はそれです
君の敵はあれです
君の敵は間違いなくこれです
ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです
ああその答えのさわやかさ 明快さ
あなたはまだわからないのですか
あなたはまだ本当の生活者じゃない
あなたは見れども見えずの口ですよ
あるいはそうかもしれない敵は……
敵は昔のように鎧かぶとで一騎
おどり出てくるものじゃない
現代では計算尺や高等数学やデータを
駆使して算出されるものなのです
でもなんだかその敵は
私をふるいたたせない
組み付いたらまたただのオトリだったりして
味方だったりして……そんな心配が
なまけもの
なまけもの
なまけもの
君は生涯敵に会えない
君は生涯生きることがない
いいえ私は探しているの 私の敵を
敵は探すものじゃない
ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの
いいえ私は待っているの 私の敵を
敵は待つものじゃない
日々にぼくらを侵すもの
いいえ邂逅の瞬間がある!
私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって
敵! 叫ぶことのできる
私の敵! と叫ぶことのできる
ひとつの出会いがきっと ある
By 埴谷雄高「序詞 権力について」
政治の裸かにされた原理は、敵を殺せ、の一語につきるが、その権力を支持しないものはすべて敵なのであるから、そこでは、敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべてになつているのであつて、もし私達がまじろぎもせず私達の政治の歴史を眺めるならば、それがあまりにも強烈に、抜目なく、緊張して死のみを愛しつづけてきたことに絶望するほどである。
By わたし 1
「空気の読めない」的なるものは繋がろうとする人たちからは、フツーに無視される。空気の読めない「美術」とか、特にね。
敵と見方の二分法。
空気読める、読めないの二分法
では、敵が味方に、空気読めないものが空気読めるものに編入されるのは、いかなる条件のもとにおいてなのか。為政者の気分(或は広告屋的なものの気分)って言っちゃうと身も蓋もないかー。
そういった条件下における私たちの『自由』とは。
2009/11/01
文脈病
1
『芸術の設計』岡崎乾二郎
……つまりそれは、くりかえし何度も見ることができる作品と、瞬時に察知される意外さや迫力がある作品との条件の違いである。後者はパーティーグッズのような物珍しさに頼るか、骨董屋のように希少性を捏造する。多くの現代美術作品は、他のものとの関係性を読ませるが、作品を一個の事物として自律させるためには、逆に、事物が新たにコンテクストを組織するのでなくてはならない。
2
I.N.U. 第一回企画 シンポジウム「美術」
http://bijutsuken.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-5419.html
……で、もう一度国内に目を向けて、きっとそういう話も日本のどこかでされているだろうと考えたんだけど、四谷[編集部註:「近畿大学 国際人文科学研究所東京コミュニティカレッジ 四谷アート・ステュディウム」のこと]あたりが思い当たりますね(笑)。四谷に、岡崎さんっていう人がいます。あそこらへんに集まっている人たちが、自分たちが作った用語や訳した用語を使って、自分たちが見てる風景を、あたかも大きな問題であるかのように語っています。そこでは確かに「クリティカルな話」がされているらしい。その閉じている雰囲気は確かにムカつくので、僕もそれは分かる。だから、開催趣旨が四谷を仮想敵としているのならば、ここに書いてある「「美術」がいかにも旧弊な閉域へと陥っている」という批判も分かる(笑)。でもその反面、それを前提としている時点で自分も陥っているんじゃないか?
3
『ARTiT』 連載 田中功起 質問する 1-1:土屋誠一さんへ
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/1ABkx0hEC9izobIetRKa
「作品が展覧会というフォーマットから帰納的に決定されている、アーティストのみなさんは、この規制をどのように乗り切るつもりなのか?」。
と、これではまだ乱暴なので、もうすこし説明すると、(A)展覧会というフォーマット(美術館やギャラリー空間で会期が決まっているとか、所与の条件がまずある)+(B)ホワイトキューブ(物理的なホワイトキューブのことではなく、大なり小なり理想的な展示空間を前提しているということ)+(C)そこで見せる人はかならずアーティスト(もちろん建築家やデザイナーもいるけど、つまりその場所で見せることを裏切らないひとという意味かな)、この3つを足したものが、「美術」という制度のベースになる。ここから導き出されたものが作品として展示される。これ「A+B+C=美術」が、この制度が前提としている作法(規制、様式)であり、この作法を逃れ出ているものはあまり見いだせない。
「A+B+C=美術」が無根拠に前提(無条件に承認)とされている。見に行くひとはその前提をひとまずは承認した上で、「美術」を見に行く。簡単に言えば、映画のフォーマット(たとえば映画を見るには1時間半ぐらい、暗がりのなかで椅子に座らなければならない)を承認した上でぼくらは映画館に行く。上記の点に文句をいうひとはまあほとんどいないでしょう。
で、土屋さんはこの無根拠で儀礼めいたものに嫌気がさしている、とうことですよね、たぶん。
というわけでこの「規制」というか「儀礼」「様式」「前提」をどうやって乗り切るのか、ってことが、少なくともアートがアクチュアルなものとしていまでも捉えられるのならば、必要なわけです。ライブなものとして見直す可能性というか。安心できる場所を確保してぬくぬくするのに満足できないひとは、とにかくこの「儀礼」をひとまずはなんとかしなければならない。
だけれども、では実際にそのフォーマットを前提としないような作品・制作・発表ってどのようなものが考えられるのか。美術犬のシンポジウムではそうした議論には発展しなかったんですが、ぼくが土屋さんに聞いてみたい