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年別アーカイブ: 2012年

2012/03/24

メモ:あたりまえのこと(だがそれを言う人はなんとすくないことだろうか!)

2012-03-22 – 偽日記@はてな
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120322

具体性抜きで「実感する」ことは可能だろうか。「xがある」ということを言うために、必ずしもxの具体像が必要なわではないだろう。ある抽象性、形式性によって実感を得ること。
たとえば、今から一万年後、二万年後の人類の姿を、具体的なイメージとして描くのはほぼ不可能だろう。具体的であればあるほど、そのイメージはいい加減で嘘くさくなるように思われる。ただ、現生人類が現れたのが18万年くらい前で、国家が出来はじめたのが3万年くらい前だということを考えて、後ろへと延びる時間を前に投射することで、彼らが一体どんな生活をしているのかを具体的に想像できなくても、一万年くらい先にも人間は普通に「いる」という感じだけは実感できるのではないか。おそらく、現在我々がもっている歴史も遺産もほぼ全て忘れられているだろうし、別のものに書き換えられているだろう。そもそも地形や気象条件、資源などの状況が根本的に異なっているだろう。文明といえるものが維持できている保証もない。それでも、人間は生物学的にはこの18万年まったく進化していないままなんとか生き延びてきたのだから、あと一、二万年くらいなど余裕で行けるだろうし、進化するとも、急激に賢くなるとも思えないとしても、内実は相変わらずあんまりかわらないままでも、なんとかして「いる」のではないか。
これは厳密には、具体性なしに実感するとは言えないか。ある具体性(過去の18万年)によって生まれる実感を、具体性が空項である未来(一万年後)へと変換することで実感を得るということになる。この変換過程が抽象性(形式性)だということになる。

そして、まさにこの意味で私は作品をつくる(美術)というものは、抽象化(形式化)の「技術」なのだと繰返し言っているのだが、ほとんど理解されないのである。

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2012/03/23

近況

ここ数ヶ月色々あって慌ただしくしていたのだが、何があったかだけは書いておこうと思う。
まぁ確定記述的なことは私自身にとって重要な事ではないのだが、実は(といってもだいぶ周知のことだが)決してに「確定記述的な事」と言えないことも含まれているので、記録として記しておこうと思うのであるが、では何があったかといえば大きく分けて3つあり、1つは昨年末に2つの美術大学大学院の博士課程を受験し合格し最終的に某国立の方(しかも油画領域である)に4月から入ることになったことであり、2つ目は結婚したということであり(つまりこれが単に確定記述的なことと言えないことであり、要は「他者」でありながらもはや「他者」でないという「かなり特殊な他者」をもつというこで、これには色々思うところもあるのだがシンプルに言えば「これは私にとって『自然な』こと」なのだということだ)、3つめは前述の事象に随伴的な事柄であるのだが来週から10年ぶりに海外に(生まれて初めての南半球に)行くという事と帰ってきてすぐに住み慣れた善福寺公園の畔から引っ越すということである。引越先には素晴らしい3口コンロ+コンベックが据え付けられていて楽しみである。

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2012/02/19

「文字通り」と「現象的」の区別

http://www.hino.nu/bbs_backlog/bbs_oldlog_6.html

「文字通り」と「現象的」の区別 投稿者:日埜
投稿日:6月22日 00時31分
あぁやっぱりピンとこない。リテラルとフェノメナルです。
とりあえず常識的な理解としては、ギーディオンがデッサウのバウハウスを誉めたのに対して、若手のロウが、「ガラス使って透明なのなんか当たり前じゃん。もうちょっとなんかあるでしょーが」とか言いつつ、形態の見え係りの重層性がある種の透明な空間の意識を発生させることを、現代美術の文脈と絡めて、しかし3次元空間を対象に解きほぐしたわけですよね。
で、その文脈では、リテラルなほうはどっちかって言うと陳腐でありきたり、フェノメナルなほうはどっちかって言うと知的で高尚、そういう価値判断があったわけですし、まぁ実際その序列はそれはそれでいいのですけど、じゃぁフェノメナルな透明性だったら面白いのかといえば、もちろんそんなわけはない。
例えばマイヤーぐらい手法的で定型的になってくると、それこそリテラルに透明だろうが不透明だろうが、どっちだろうと面白さにきわだった差があるとは思えない。あるいは透光不透視とかヴォキャブラリーの幅が増えても、同じことだと思う。その意味で、ロウが与えた価値判断を宙づりにしたってまったく問題ないはず。
そうしてみると、対概念として出てきた、そのリテラルとフェノメナルですけど、それは対立する必要はないはずだろうと思うのです。リテラルに透明でフェノメナルに透明だったり、リテラルには不透明でフェノメナルに透明ってのが、普通考えているものでしょうけど、リテラルに透明でフェノメナルに不透明とか、リテラルに不透明でフェノメナルにも不透明とか、あるいは透明と不透明の間のどこかでどうこうとか、そのあたりもっとニュアンスがあるはずだと思うのですが。具体的にそれがどういうことかっていう意味付けまで含めて、もうあれも最初に書かれてから50年近くたってるんだし、同じところをぐるぐる廻るんでなしにきちんと再検討してみてはどうかな、と、思うぞなもし^^)。

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