http://news.google.com/news?client=safari&rls=en&q=平山郁夫%E3%80%80逝去&oe=UTF-8&um=1&ie=UTF-8&hl=ja&ei=5nAWS46WC4uUkAWFlYH_Bg&sa=X&oi=news_group&ct=title&resnum=1&ved=0CA4QsQQwAA
冥福は祈りません。祈るわけないじゃん。
死人に鞭打つようだけれど、これを機にマスメディアはおそれることなく盛大に叩くべきだと思う、画壇システムも含めて。これでこの国の「美術」が正しい姿を取り戻してくれると良いのだけれど。
浅田を引くまでもなくまでもなく、この人、普通に下手だよね……っていうか、ヒロヤマガタ(笑)、マックナイト(笑)、ラッセン(笑)のラインに、東山魁夷(笑)と平山郁夫(笑)を並べてもたいして違和感がないというのが、逆にスゴい。
ボルタンスキーの「最後の教室」がお化け屋敷に見えてしまうっていうのもそうだけれど、やはり”西側的な意味での近代”は、この国にはそのまんまのカタチでは存在しない、というのは否定しようがない。(とはいえ個人的には、近代そのものがない、という程単純ではないと思います。)
だから浅田の言う、カウンターとしての村上の”極東土人の居直り戦略”は独り相撲だ、というのはその通りだと思うし、僕としては近代があったとしても、カウンターという戦略自体がもはや無意味で唾棄すべきものだということも言い添えておくけれど……でも、ちょっと待った!
もしかしたら、そういう意味で平山先生の作品(笑)が、村上などに先立っておこなわれた”ニッポンのラディカルで反体制的なマンガの真似ごと”だったのかも……ということは、まさか……あるのだろうか!?
QUOTES
2009/12/02
THE END OF “AXIS of EVIL”
2009/11/30
シ・ワ・ケ・!
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/47Il0WSmBUZ8JTtxQkHh
先日、お呼ばれした渋谷のレストランでの結婚パーティの際にK氏とも話したのだが、文化庁予算の仕分けの件。
WGの判断も概ね正しいし、サワラギの論も正論。まぁその通りですよ。
こういった事業は(たぶん海外と比べても少ないんだろうけど)金は突っ込んでいて、且つある程度つっこまなきゃいけないというところまでは理解されているんだろうけど、そもそもリソースは有限だし、現状それが効果的なかたちで生かされてるかどうかは分からんのは事実なので、ベターな方向へ抜本的に考え直しということになれば良い。今のところ、本当にお金が必要な人にまわって来ていないのだから。
WGのコメントも……
●芸術は自己責任。日本独自の洗練された文化レベル・芸術性が通用するのであれば、しっかりしたマーケティングで興行可能。
●人材育成は不要。各コンテストの副賞等で有望な人材は留学している。
とかは、あまりにモノを知らな過ぎなんじゃないかと思ったりするけれど、
●事業対象者のフォローの仕組みと評価の仕組みを構築してから今一度実行。事業自体は重要と考える。運賃のコストの見直しも必要。
●分止まりを含め、何を目標とすべきか。フレームワークそのものを先に作るべき。ゴール設定がメジャーメント可能でないので評価できない。ただし、芸術家支援そのものはしっかりやるべき。
とかは、本当にごもっとも。
有限なリソースの分配こそが行政なのだから(従って「敵を殺せ」でもあるわけだけれど)、産業的に回収を見込める(と思い込んでいる)”文化庁冬のメディア芸術まつり(笑)”とかいう本当に下らなく且つ痛いイベントにも金をつっこみたくなるのだろうが、それは本来経産省とかから出るべき金なのであって、文化庁からは(額自体は少なくていいから)そもそも資本主義的フレームワークを度外視しないといけない「美術」(というか広義の文化)にお金を回してもらいたいとフツーに思う。
そういった美術が行政によって「それは敵だ、敵を殺せ」となり、また有権者によって承認されるのならば、それはそれで自由だから結構ですが、私はその社会から下りる自由を行使します。
あ、あと蓮舫はやっぱり可愛い。
2009/11/16
感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?
小熊英二 『1968』
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/1968.htm
http://www.amazon.co.jp/1968%E3%80%88上〉若者たちの叛乱とその背景-小熊-英二/dp/4788511630
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4788511649/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4788511630&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0C7G78PK9M77FPQWJ9TH
超欲しい。サンタさん、今年はこれが欲しいです……1冊7000円って。これも資本主義がいけないと言わざるを得ない。
腹いせに『腹腹時計』でも読むしかない。
都市ゲリラ。おとしまえをつける。浴田さんはまだ栃木。
http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/hara.htm
2009/11/13
Amazon.co.jp: 文学なんかこわくない (朝日文庫)のたろうさんのレビュー
http://www.amazon.co.jp/review/RKGFY3N9AIEYE
読んでいなかった。でも、横国→ゲバ棒もって逮捕→収監→失語症→肉体労働→小説家だから、世代的にも高橋源一郎は絶対に埴谷雄高好きだと思っていたのだけれど。
他に具体的な言及が見当たらないから、これは見逃してはならない。
2009/11/11
井の頭公園コーポラス503、或はレンタル褌。
By Charlie 1
http://blog.szk.cc/2009/11/09/constructed-authenticity/
00年代とは、いかなる時代だったのか?様々なリソースを引用し、あらゆる角度から語ることができるだろうけど、最大公約数的な要素として「繋がり」を挙げることに反対する人はいないだろう。僕が「ネタ的コミュニケーション」(02年)と言い、北田暁大さんが「繋がりの社会性」(05年)と呼んだ、コミュニケーションの内実ではなく、接続されていることそのものが目的であるような「コンサマトリーな繋がり」が、ネットやケータイを通じて前景化し、バーチャル世界ではなく、現実世界の方を志向(大規模オフ会!)した時期だった、と。
(……)
じゃあ、この00年代のモードは、10年代にはどう受け継がれるのか?まず考えられるのは、その「分断」は、結局インチキだったのだ、僕たちは、「分断」以前の〈ほんもの〉の繋がりを再構築しなければいけないのだ!という主張だろう。
(……)
でもこれ、僕にはあまり意味のない主張に思える。「何かが欠落した不完全な関係性を、現状を変えることで完全な関係性に変換しなければならない」という論理の形式は、何も変わっていないからだ。一方は空間やメディアの設計を、他方は法や規範(教育)の設計を呼び出しているに過ぎない。
そもそも、その関係が〈ほんもの〉かどうかなんて、時間的な前後関係で変わるはずだ。昭和30年代にはあったとか、おばあちゃんの頃にはあったとか、それは歴史的な事実かもしれない。けれどそれを経験していない今の10代が「あの頃の懐かしい関係を取り戻そう」とか言い出したらそりゃダウトだろう。「ほんとうらしさ」はいつもそうやって捏造される。
(……)
空間の設計ということで考えるならば、〈ほんとう〉の繋がりを取り戻し、利用者に対して、それがどれだけいびつであるかを気付かせず、あたかも「全体性」が回復したかのように錯覚させる空間が、「よい」とされるようになるだろう。けれどもその評価に乗っていけない、いきたくないというのなら、僕は、ある定められた空間の中に「空気の読めない空間」を作るということが必要なんじゃないかと感じている。
なんだか電波な表現だけど、僕は決して「空気の読めない人のための空間」を作れと言っているのじゃない。一度は切り離された「空気の読めない」空間を、あたかもそこにあることが自然であるかのように、再び埋め込むのだ。今回の展示およびプレゼンでいえば垣内光司さんの作品は、とてもそういう意図に満ちたものだったと思う。たぶん彼の話の中では、そういう要素は結果的に抑えられていたけど。そういえばそう思って学校の中を見渡してみると、意外にこの大学にも「空気の読めない空間」はあって、そういう場所には、やっぱりたいてい個性的なたたずまいの学生が集まっている。
どうせ悩むのなら、建築家は建築家しか悩めないことで悩むべきだし、そのために、既に他の誰かが考えていることなら、それは他人の褌で相撲をとりまくればいいのだと思う。何を考えたかの前に、誰の褌を巻いたか、結局はそれが問われるのじゃないか。
By Charlie 2
http://blog.szk.cc/2009/10/23/know-your-enemy/
({By 茨木のり子} By Charlie)
私の敵はどこにいるの?
君の敵はそれです
君の敵はあれです
君の敵は間違いなくこれです
ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです
ああその答えのさわやかさ 明快さ
あなたはまだわからないのですか
あなたはまだ本当の生活者じゃない
あなたは見れども見えずの口ですよ
あるいはそうかもしれない敵は……
敵は昔のように鎧かぶとで一騎
おどり出てくるものじゃない
現代では計算尺や高等数学やデータを
駆使して算出されるものなのです
でもなんだかその敵は
私をふるいたたせない
組み付いたらまたただのオトリだったりして
味方だったりして……そんな心配が
なまけもの
なまけもの
なまけもの
君は生涯敵に会えない
君は生涯生きることがない
いいえ私は探しているの 私の敵を
敵は探すものじゃない
ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの
いいえ私は待っているの 私の敵を
敵は待つものじゃない
日々にぼくらを侵すもの
いいえ邂逅の瞬間がある!
私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって
敵! 叫ぶことのできる
私の敵! と叫ぶことのできる
ひとつの出会いがきっと ある
By 埴谷雄高「序詞 権力について」
政治の裸かにされた原理は、敵を殺せ、の一語につきるが、その権力を支持しないものはすべて敵なのであるから、そこでは、敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべてになつているのであつて、もし私達がまじろぎもせず私達の政治の歴史を眺めるならば、それがあまりにも強烈に、抜目なく、緊張して死のみを愛しつづけてきたことに絶望するほどである。
By わたし 1
「空気の読めない」的なるものは繋がろうとする人たちからは、フツーに無視される。空気の読めない「美術」とか、特にね。
敵と見方の二分法。
空気読める、読めないの二分法
では、敵が味方に、空気読めないものが空気読めるものに編入されるのは、いかなる条件のもとにおいてなのか。為政者の気分(或は広告屋的なものの気分)って言っちゃうと身も蓋もないかー。
そういった条件下における私たちの『自由』とは。
2009/11/01
文脈病
1
『芸術の設計』岡崎乾二郎
……つまりそれは、くりかえし何度も見ることができる作品と、瞬時に察知される意外さや迫力がある作品との条件の違いである。後者はパーティーグッズのような物珍しさに頼るか、骨董屋のように希少性を捏造する。多くの現代美術作品は、他のものとの関係性を読ませるが、作品を一個の事物として自律させるためには、逆に、事物が新たにコンテクストを組織するのでなくてはならない。
2
I.N.U. 第一回企画 シンポジウム「美術」
http://bijutsuken.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-5419.html
……で、もう一度国内に目を向けて、きっとそういう話も日本のどこかでされているだろうと考えたんだけど、四谷[編集部註:「近畿大学 国際人文科学研究所東京コミュニティカレッジ 四谷アート・ステュディウム」のこと]あたりが思い当たりますね(笑)。四谷に、岡崎さんっていう人がいます。あそこらへんに集まっている人たちが、自分たちが作った用語や訳した用語を使って、自分たちが見てる風景を、あたかも大きな問題であるかのように語っています。そこでは確かに「クリティカルな話」がされているらしい。その閉じている雰囲気は確かにムカつくので、僕もそれは分かる。だから、開催趣旨が四谷を仮想敵としているのならば、ここに書いてある「「美術」がいかにも旧弊な閉域へと陥っている」という批判も分かる(笑)。でもその反面、それを前提としている時点で自分も陥っているんじゃないか?
3
『ARTiT』 連載 田中功起 質問する 1-1:土屋誠一さんへ
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/1ABkx0hEC9izobIetRKa
「作品が展覧会というフォーマットから帰納的に決定されている、アーティストのみなさんは、この規制をどのように乗り切るつもりなのか?」。
と、これではまだ乱暴なので、もうすこし説明すると、(A)展覧会というフォーマット(美術館やギャラリー空間で会期が決まっているとか、所与の条件がまずある)+(B)ホワイトキューブ(物理的なホワイトキューブのことではなく、大なり小なり理想的な展示空間を前提しているということ)+(C)そこで見せる人はかならずアーティスト(もちろん建築家やデザイナーもいるけど、つまりその場所で見せることを裏切らないひとという意味かな)、この3つを足したものが、「美術」という制度のベースになる。ここから導き出されたものが作品として展示される。これ「A+B+C=美術」が、この制度が前提としている作法(規制、様式)であり、この作法を逃れ出ているものはあまり見いだせない。
「A+B+C=美術」が無根拠に前提(無条件に承認)とされている。見に行くひとはその前提をひとまずは承認した上で、「美術」を見に行く。簡単に言えば、映画のフォーマット(たとえば映画を見るには1時間半ぐらい、暗がりのなかで椅子に座らなければならない)を承認した上でぼくらは映画館に行く。上記の点に文句をいうひとはまあほとんどいないでしょう。
で、土屋さんはこの無根拠で儀礼めいたものに嫌気がさしている、とうことですよね、たぶん。
というわけでこの「規制」というか「儀礼」「様式」「前提」をどうやって乗り切るのか、ってことが、少なくともアートがアクチュアルなものとしていまでも捉えられるのならば、必要なわけです。ライブなものとして見直す可能性というか。安心できる場所を確保してぬくぬくするのに満足できないひとは、とにかくこの「儀礼」をひとまずはなんとかしなければならない。
だけれども、では実際にそのフォーマットを前提としないような作品・制作・発表ってどのようなものが考えられるのか。美術犬のシンポジウムではそうした議論には発展しなかったんですが、ぼくが土屋さんに聞いてみたい
2009/10/31
index of 元ネタ
東京都の粗大ゴミの中で、マルジェラ。(このサイトは作成中ではありません)
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/105/
2009/10/28
“bungei / 2oo9 / winter”とその周辺
{1}青山七恵×磯崎憲一郎 “これから小説を書く人たちへ”
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309977256
……
7恵(以下[7])「紙に手書きの字が書いてあるだけだとまったく小説っぽく見えないんですよね。ただ自分の書いた文字っていう感じで、これは小説にはならないと思って数ページでやめてしまいました。転機は大学に入学して、パソコンの使い方を教わったことなんです。パソコンだと書けました。」
憲1郎(以下[1])「きっかけは道具が書かせたという感じですかね」
7「ひとつのきっかけでしたね。パソコンだとちょっと書いてプリントして読むと、もう活字じゃないですか。「あ、これはもう、小説っぽくなってる」っていう感激があって、それがどんどん積み重なって、ひとつの作品が書き上がったという感じです。」
(……)
7「だって実際、二、三時間もぶっ続けで書いたりとかってしませんよね。」
1「僕が思うのは、小説家にとっては、小説の時間が実はすべてのほかの時間を内包しているのであって、小説の時間の中を常に生きているから、どこか三〇分とか一時間とかを切り取って小説を書く時間にしたり、小説を読む時間にしたところで、ぜんぜん分断されないというか、もうすでにその中にいるところの時間に過ぎないんですよ。僕たちにとって社会的な生活というのは小説の時間の、小説的生活の中の一部でしかないのかな、と。」
{2}保坂和志文藝賞選評
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309977256
……作者は世界や人間の負の側面を書かなければ小説にならないという間違った小説観をもっていて、律儀にそれを実行したようだ。しかし一八四ページの犬の始末にまつわるくだりに端的にあらわれているように、この作者の視線はやさしい、というかちゃんと見えている。実際に犬を始末する人間はこんなことを考える回路を持っていない。つまり自分以外の人間やまして動物に内面がある、などと考えたこともない。相手が見えるということは、世界と人間に対する肯定の基盤であり、だから主人公もサダも母もサダの母も父もナンバーセブンも、うとましいのに嫌いになれない、どころ好きになってしまう。この距離感は絶妙であると同時にこの作者独自のものだと思う。
いっぽう『ボーダー&レス』は、小説に対する素朴なイメージから書こうとする作品の設計図が事前にあり、『犬』が作者の視線の独自性によって既成の尺度だけでは評価できない、読者の読みに対して能動性を促す作品となっているのに対して、設計図どおりであるがために既成の尺度だけで測られる受動的な作品の域を出ない。
(……)
「やり逃げかよ」という一文は、在日云々よりもずっと、設計図を破るポテンシャルを持っている。
{3}ところで私が中高生であった頃の話。
「国語」が好きで成績もよかったのは、教師の趣味による取り上げられる作品(作家)の偏向のせいもあって、明らかにそこで求められる正答とそれに至る理想的な思考の過程とでも言うべきものがハッキリと見えていたからである。なぜあれほどまでに露骨にフレームワークが示されているのに、それをトレースできない人がいるのか今でも不明だが、そういった教育のデメリットとして、私が小説の醍醐味は作家間(作品間)に示されるフレームワークの違いであることを理解する為には埴谷雄高の洗礼が必要となった。
{4}世界文学全集@NHK
http://www.nhk.or.jp/shiruraku/mon/index.html
池澤夏樹が最近NHK教育で夜に世界文学全集の番組をやっている。そこでは(フォーマリスティックな言い方になるが)重要な形式の違いというものは、どうしても『サルガッソーの広い海』的な話として展開されるのだ。植民地、民族、文化、制度、マイノリティ……。が、それは実は同一平面上に位置しているのではないか。
とはいっても、何故、私は池澤夏樹を嫌いになれないのか。どうも私が育ってきた環境(というか趣味というか、個人的な好悪)によるものの気がする。
{5}もちろん注意する事
DAS KAPITAL
“The road to hell is paved with good intentions” by Karl MARX
{6}岡崎乾二郎『芸術の設計』
http://www.filmart.co.jp/cat138/001004.php
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1870715
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1870873
{7}走る、もちろんバイクでだが。
燃費が良くなっていく、どんどん。ついに最近は当初のリッターあたりの約160%程度距離が伸びている。これを不審に思うのは何故か。
2009/10/26
体はこわれる。私は死ぬ。
本日、武田幸三引退。久しぶりにブラウン管を見ていただけで目から汗が。ワタシというものが感覚するものは、言うまでもなく信じるに足らないもの(ワタシがコンテクストや制度や言語を離れて自由に”感じる”なんて、バカじゃないの)なのですが、やっぱり身体がぶつかって壊れて動かなくなるというのは、まぁなんというか有無を言わさぬ説得力があるというか、信じざるを得ない。いずれ僕も死ぬのだ。記憶が曖昧なので何とも言えないが船木の引退戦(VSヒクソン)を思い出された。
くれぐれも岩下と仲良くやっていって下さい。