西荻図書館に『モダニズムのハードコア』を返却に行って、帰りに『ラジオの仏』と『リバーズエッジ』を音羽館で。
『リバーズエッジ』は己に課した「岡崎京子は古本で」縛りの為になかなか買えなかったが、待てば出るのだ。しかも¥100で。『ラジオの仏』も¥300、これも掘り出し物。
※現在絶版である伝説の『モダニズムのハードコア』は、調べたところ東京都の公立図書館では目黒区立図書館だけが1冊所蔵している。目黒区立図書館は目黒区民でなくても借りれるようですし、他館にも貸出してくれたので、お探しの方はぜひお近くの図書館で。
QUOTES
2009/08/12
Buddha of the radio
2009/08/12
time waits for no one
↑
(゚Д゚ )ハァ?
『サマーウォーズ』は前売りを買ってしまったので、バウスシアターにやってくるのを待っている(15日から)ワケですが、昨晩テレビをつけたら『時かけ』をやっていたので久しぶりに見てしまった。で、やっぱりこれがまぁ、文句なく良いわけですよ。夏休みの東京女子大の芝生に日が差し込み、向いのアテスウェイが繁盛しているのを毎日目にする身としては、それなりに思い入れもございます。
とはいえ、予てより成長期の女性(とりわけ女子中高生)には名状し難い醜さ、というかヘンな生々しさがあって嫌だ、ということを主張している私ですが、それが男子校に行ってしまったという取り返しがつかない過去へのルサンチマンに起因するかどうかはどうでもよいとして、「規範の相対化」(つまり「こうでない私」という想定)という問題は私たちの有限的な(というか一回性の)生というもんだいとやっぱり衝突するのですね。
そういえば、空間的、あるいは時間的にも「複数的な私」という話って、美術とか文学とか映画とかアニメとかであるんだろうか。そういう意味では埴谷の虚体は超時空的な自我ですから、ある意味でそうなんだけど、まぁもはや複数とか単数とかいうレベルじゃねーしな……と思ったけれど、やっぱり時間的/空間的/規範的制約を超えた「可能態全てを含む私」を扱うとやっぱりそっちに行っちゃうだろうか?
2009/07/29
200Q年の少年カフカ
http://www.amazon.co.jp/少年カフカ-村上-春樹/dp/410353415X
夕方に下北沢駅前の本屋に入ったら平積みになっていて、即刻購入。長らく絶版になっていたんだがなー、再販ですか。『1Q84』がらみでしょうかね。売れ過ぎな気もしますけど、タイトル的には1984→1Q84(村上)、すばらしい新世界→すばらしい新世界(池澤)、とディストピア系はバランスがとれた気がする。(そういえば村上のタイトル引用には万延元年のピンボールがありましたっけ)
何はともあれ、1984だとか1Q84だとか、破だとかQuickeningだとか、200Q年は大変です。
再販といえば、『虚構の時代の果て』も増補になって、ちくまから文庫化されていたので先日即買いしたのでした。200Q年は1995年のことをよく思い出す年でもあるようです。
2009/06/30
YOU CAN (NOT) ADVANCE.
http://www.evangelion.co.jp/2_0/index.html
興奮が醒めない。まさに14歳であの「1995年」を迎えた私たちの世代は、それから15年後、こうしてまた新たに臨界点を突破する瞬間を見ている。これを幸福と言わずして何と言おうか!
あの「1995年」、見事に全ての価値は還元され、相対化された。最終審級を求めた最終回、私たちは徹底的な相対化を目の当たりにし、その後早朝から並んだ池袋の映画館では、文字通りぺんぺん草ひとつさえ残らない、全ての審級が崩壊した世界を目撃した。完璧な傑作。もはや出口無し、八方塞がり。
そんなほめたたえる何ものもなく、信じられる何ものもなく、同時に失望する何ものもない焼け野原から、私たちの「中二」以降は始まったのだった。焼け野原に居直るのでもない、かといって耐えきれずに1995年以前に退却するのでもない、『前進する』方法だけ考えてきたのがこの15年間だったと言って良い。
しかし、それは私たちだけではなかった。1995年に全てを焼き尽くした「あの作品」もまた、15年後に全く同型の展開を見せたわけだ。なんと!
今回もやはり「大人になること」は見事に拒否された。しかし、一方で「あくまで個人的なレベルで」能動的な選択がなされたのである。それは決して、善/悪、真/偽のような「大きな物語」に属するものではない。一つのエラーとして、あるいは勘違いとして、無限にある選択肢から能動的に一つが選びとられたのだ。
私は再び傑作を見ている。私は前進することができる(できない)。