太郎かアリスvol.3 – Taro or Alice vol.3 –
東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻油画第7(OJUN)研究室展
会期:2012年7月2日(月)〜7月6日(金)
10:00〜19:00 ※最終日(〜17:00)
レセプションパーティー:7月2日(月)17:00〜19:00
出展作家:
小穴琴恵/金井 学/菊池絵子/小林裕子/佐々木美穂子/瀬尾なつみ/高橋麻子/富田直樹/山口真和/山脇紘資
会場:YUGA GALLERY &立体工房
〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8
東京藝術大学美術学部絵画棟1F
050-5525-2144 (油画教員室)
油画webサイト:http://geidai-oil.com/
QUOTES
2012/06/28
Exhibition
2012/05/24
メモ
http://correlative.org/exhibition/kiso2005/index.html
課題
すでにある事物(ペットボトル、眼鏡、帽子、ペン、服、椅子等々)を分析し、事物が構成されている部分同士の関係─シンタックスを読み取り、それを 使って建築を計画しなさい。その際、何の建築なのか─彫刻家の住居、図書館、宇宙船、温泉施設、芸術学校、刑務所等々─も考え、提示する。
1
事物には、すべてシンタックス―部分同士の関係性がある。それを読み取り、事物同士を結びつけてみる(Mappingする)。それにはまず、それぞれの 事物を部分に分解し、機能を分析する必要がある。例えば、コーヒーカップであれば、コーヒーを貯める器部分、取手、器部分を支える高台。そのコーヒー カップを「顔(頭)」と結びつけるとすれば、器部分は頭蓋骨、取手部分は鼻、高台は首、とみることができる。では、同じコーヒーカップを「草」に結びつ けようとするとどうなるか。液体が注ぎ込まれ貯める器部分は、水分を吸い上げ貯蔵する草の根にあたるとも言える。そう読み込んだとすると、器部分は、通 常のコーヒーカップ使用時とは逆に、高台を支える部分となり、高台は根に支えられた葉の部分としてみることができるだろう。
2
図面を、細部にまで情報が詰め込まれたリアリティのあるものにしていくには、事物から見つけ出したシンタックスをどこまで読み込むことができるかにか かっている。そのためには、完成品(建築)がどのように理解され、使用されるか─機能性を考えなければならない。使われ方/何のための建築なのか、 を考えなければ、細部(ディテール)を埋めていくことはできない。
3
事物と事物(例えば、コーヒーカップと建築)を結びつけるためには、それぞれの事物がもつ多元的な『機能』をいかに読み込み対応させるかが重要である。
(四谷アート・ステュディウム 木原進)
2012/04/27
とりあえずあったこと
オーストラリアに行ってシドニーで展示のお手伝いをしてメルボルンで妻のお知り合いにご挨拶して帰ってきたら4月で、翌日健康診断その翌日が入学式であったのであり、ガイダンスやら何やらをやりつつ引っ越し荷物をまとめて12日に引越し、大学にアトリエの荷物を運搬し、3日後に妻が引越し、家を片付けながら書類だ電気ガス水道の契約だ銀行口座の開設だ何だと手続きを済ませつつ、大学の奨学金に2つほどアプライし、大学では履修の登録をして年金と健康保険と転籍と免許証の住所変更と銀行やクレジットカードの住所変更を終えたら4月が終わろうとしているのであった。
2012/04/03
サン・ヴィクトルのフーゴー – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/サン・ヴィクトルのフーゴー
故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟ものである。
あらゆる場所を故郷と感じられるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。
全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。
via サイード
2012/03/24
メモ:あたりまえのこと(だがそれを言う人はなんとすくないことだろうか!)
2012-03-22 – 偽日記@はてな
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120322
具体性抜きで「実感する」ことは可能だろうか。「xがある」ということを言うために、必ずしもxの具体像が必要なわではないだろう。ある抽象性、形式性によって実感を得ること。
たとえば、今から一万年後、二万年後の人類の姿を、具体的なイメージとして描くのはほぼ不可能だろう。具体的であればあるほど、そのイメージはいい加減で嘘くさくなるように思われる。ただ、現生人類が現れたのが18万年くらい前で、国家が出来はじめたのが3万年くらい前だということを考えて、後ろへと延びる時間を前に投射することで、彼らが一体どんな生活をしているのかを具体的に想像できなくても、一万年くらい先にも人間は普通に「いる」という感じだけは実感できるのではないか。おそらく、現在我々がもっている歴史も遺産もほぼ全て忘れられているだろうし、別のものに書き換えられているだろう。そもそも地形や気象条件、資源などの状況が根本的に異なっているだろう。文明といえるものが維持できている保証もない。それでも、人間は生物学的にはこの18万年まったく進化していないままなんとか生き延びてきたのだから、あと一、二万年くらいなど余裕で行けるだろうし、進化するとも、急激に賢くなるとも思えないとしても、内実は相変わらずあんまりかわらないままでも、なんとかして「いる」のではないか。
これは厳密には、具体性なしに実感するとは言えないか。ある具体性(過去の18万年)によって生まれる実感を、具体性が空項である未来(一万年後)へと変換することで実感を得るということになる。この変換過程が抽象性(形式性)だということになる。
そして、まさにこの意味で私は作品をつくる(美術)というものは、抽象化(形式化)の「技術」なのだと繰返し言っているのだが、ほとんど理解されないのである。
2012/03/23
近況
ここ数ヶ月色々あって慌ただしくしていたのだが、何があったかだけは書いておこうと思う。
まぁ確定記述的なことは私自身にとって重要な事ではないのだが、実は(といってもだいぶ周知のことだが)決してに「確定記述的な事」と言えないことも含まれているので、記録として記しておこうと思うのであるが、では何があったかといえば大きく分けて3つあり、1つは昨年末に2つの美術大学大学院の博士課程を受験し合格し最終的に某国立の方(しかも油画領域である)に4月から入ることになったことであり、2つ目は結婚したということであり(つまりこれが単に確定記述的なことと言えないことであり、要は「他者」でありながらもはや「他者」でないという「かなり特殊な他者」をもつというこで、これには色々思うところもあるのだがシンプルに言えば「これは私にとって『自然な』こと」なのだということだ)、3つめは前述の事象に随伴的な事柄であるのだが来週から10年ぶりに海外に(生まれて初めての南半球に)行くという事と帰ってきてすぐに住み慣れた善福寺公園の畔から引っ越すということである。引越先には素晴らしい3口コンロ+コンベックが据え付けられていて楽しみである。
2012/02/19
「文字通り」と「現象的」の区別
http://www.hino.nu/bbs_backlog/bbs_oldlog_6.html
「文字通り」と「現象的」の区別 投稿者:日埜
投稿日:6月22日 00時31分
あぁやっぱりピンとこない。リテラルとフェノメナルです。
とりあえず常識的な理解としては、ギーディオンがデッサウのバウハウスを誉めたのに対して、若手のロウが、「ガラス使って透明なのなんか当たり前じゃん。もうちょっとなんかあるでしょーが」とか言いつつ、形態の見え係りの重層性がある種の透明な空間の意識を発生させることを、現代美術の文脈と絡めて、しかし3次元空間を対象に解きほぐしたわけですよね。
で、その文脈では、リテラルなほうはどっちかって言うと陳腐でありきたり、フェノメナルなほうはどっちかって言うと知的で高尚、そういう価値判断があったわけですし、まぁ実際その序列はそれはそれでいいのですけど、じゃぁフェノメナルな透明性だったら面白いのかといえば、もちろんそんなわけはない。
例えばマイヤーぐらい手法的で定型的になってくると、それこそリテラルに透明だろうが不透明だろうが、どっちだろうと面白さにきわだった差があるとは思えない。あるいは透光不透視とかヴォキャブラリーの幅が増えても、同じことだと思う。その意味で、ロウが与えた価値判断を宙づりにしたってまったく問題ないはず。
そうしてみると、対概念として出てきた、そのリテラルとフェノメナルですけど、それは対立する必要はないはずだろうと思うのです。リテラルに透明でフェノメナルに透明だったり、リテラルには不透明でフェノメナルに透明ってのが、普通考えているものでしょうけど、リテラルに透明でフェノメナルに不透明とか、リテラルに不透明でフェノメナルにも不透明とか、あるいは透明と不透明の間のどこかでどうこうとか、そのあたりもっとニュアンスがあるはずだと思うのですが。具体的にそれがどういうことかっていう意味付けまで含めて、もうあれも最初に書かれてから50年近くたってるんだし、同じところをぐるぐる廻るんでなしにきちんと再検討してみてはどうかな、と、思うぞなもし^^)。
2011/12/15
メモ
http://www.artstudium.org/comment_okazaki.pdf
身体表現と一口に言われますが、身体はそもそも単一のものであることが保障されているわけではありません。(ルーティン化された所作のなかでは、身体は意識されないので、単一なものと思い込んでしまいがちです)けれど、なにかスポーツでも身体的な技術でも、新しいことを覚えようとするとき、あるいはどこか故障したとき、思いの通り、身体が連動しないこと、身体各所が同時に動かず、バラバラにずれていってしまうようなことに気づくはずです。
身体表現(の習得)とはそもそもさまざまな器官に分節されてしまっている、身体(具体的には関節を考えてもらえばわかります)を単一であるという観念から、いったん解き放し(まずはバラバラにし)、バラバラにされた、手足、胴体、頭、関節、筋肉、内臓、皮膚をあらためて繋ぎ直し、連動、連携させる方法を会得しなおすことです。
すなわち身体を、一連の運動体へと組織しなおす、固定した体(という中枢的な観念)を捨てさり、代わりに、変容しつづける、さまざまなる運動(する)身体へ組織しなおす、ほんらいバラバラの器官である身体が身体として統合され、単一で、ありうるとすれば、固定されたモノとしてではなく、運動の中においてである、(この身体をひとつに連動させるためのモチベーション=意志をエフォートとラバン〔モダンダンスの理論家〕は述べました)。
以上の身体について述べた事柄はそのまま、言語の過程に置き換えて考えることができます。ばらばらにされた身体からいかに一つの運動体をつくりだすかは、ばらばら、な個々の単語から、いかにひとつの文を形成するか、言語の形成過程に置き換えることができる。われわれは言葉を理解するとき、個々の単語を理解し、それをただ加算(足して)して意味を理解しているわけではない、(文は単語のたんなる加算ではない)、乗算以上のジャンプがあります。個々の単語にはなかった意味が文からは読み取られる、それはしばしば発話者の感情(自己表出などと単純に理解する批評家もいます)と理解されたり、発話者から受け手への行為遂行的な意志伝達であると読み取られたりもしてきた。
いずれにせよ、なぜ、その文が発せられているのか、言われたのか(言われなければならなかったのか)、というモチベーション=エフォートこそが個々の単語そのものの意味よりも重要視され、理解されるわけです。(いいかえれば、この感情的な負荷を帯びていると理解される、モチベーションがなければ、文を発すること、話す事も人はしない)、
だからこそ、ひとは少々、文法がぶっこわれていても、単語が欠けていても、まったく新しい奇妙な言葉使いでも意味を理解することができるわけです。
誰もが知っているように、言語表現にしろ、身体表現にしろ、美術のような視覚表現にしろ、芸術表現において、もっとも重要な面のひとつは文法的には違反である表現を成立させてしまうことであり、ゆえに、(そのことによって)いままでにない文法=形式、話法を創造してしまうことでもあった。
*
山崎広太さんは、天才的な言語感覚の持ち主です、こういう人に出会えるチャンスは滅多にない(まちがいありません)、というほど、ぶっとんでいる天才です。サイキばしっていますが、才気は彼の場合、寛容さ、やさしさと繋がっています。言葉はしばしばジャンプする、間が飛ばされ、ことばからことばへ論理節がふたつ、みっつ省かれて、ジャンプしてしまうようなところがある。この特異な言語感覚(イメージ飛躍力)は、山崎さんの身体技術、その方法と(多くの人がそう直感するように)無関係ではありません。
単語と単語をつなぎ合わせるのは、シンタックスという慣習的な法ではない、単語と単語の間をむすびつけるのは、連想です(それがいかに使われうるか、使われてきたか、という具体的な場面での全体的な機能、つまり場そのものが帯びていたイメージ)、この機能的なイメージとイメージを繋ぎ合わせる(アソシエートさせる)こそが、運動である。
ある場面での運動(機能)と別の異なる場の運動(機能)をつなぎあわせる、もう一段上の論理、これが実現させるために必要なのは、むしろ空間的時間的なパラディグム、個々の単語の差異ではなく個々の言葉を、運動する群として、集合として捉える能力です、セザンヌをはじめとするポスト印象派の画家が直感したような。
2011/11/29
作品の終わり
一年程前に新宿ジュンク堂で『組立』を買ってからずっと気になっている。
佐藤雄一氏のことだ。全くの同世代(というか同い年)であるがゆえ、氏の教養の深さには深い尊敬と一縷の嫉妬(否、一縷の尊敬と深い嫉妬か)を抱いている事は隠さず表白しておくが……まあそれはよいとして、問題はやはりサイファーだ。もっともそれ自体は試みとして面白い。面白過ぎると言っても良いし、制作の方法論の1つとして正鵠を射ている。
興味深いのは慎重に「エクササイズ」という言葉を使っていることだ。制作ではない、エクササイズだ。従って作品の完成、「終わり」は周到に回避されている。つまりこのエクササイズにおいて、作品は口から出力されると同時に一時的な状態におかれ、来たるべき修正、改変、発展に開かれ続けていることこそが、この方法論の勘所なのではないか。
だとすると、やはり気になるのはどの時点で作品の完成を確定するのかということだ。どこで制作中が終わりを迎えるのか。「完成」とするのか。無論、サイファー自体を1つの運動として作品と定義するというアクロバティックも無くはないが、もしそういうトリッキーな論理が用いられるのだとすれば、私としては「状況の構築」と同様な矮小な問題系に落ちて行ってしまうのではという疑念を持たざるを得ない。
といったところで、氏のことだ、もっときっと複雑な射程で問題系を捉えているのだろう。私ももっと勉強がしたい。