井の頭公園コーポラス503、或はレンタル褌。

By Charlie 1
http://blog.szk.cc/2009/11/09/constructed-authenticity/

00年代とは、いかなる時代だったのか?様々なリソースを引用し、あらゆる角度から語ることができるだろうけど、最大公約数的な要素として「繋がり」を挙げることに反対する人はいないだろう。僕が「ネタ的コミュニケーション」(02年)と言い、北田暁大さんが「繋がりの社会性」(05年)と呼んだ、コミュニケーションの内実ではなく、接続されていることそのものが目的であるような「コンサマトリーな繋がり」が、ネットやケータイを通じて前景化し、バーチャル世界ではなく、現実世界の方を志向(大規模オフ会!)した時期だった、と。
(……)
じゃあ、この00年代のモードは、10年代にはどう受け継がれるのか?まず考えられるのは、その「分断」は、結局インチキだったのだ、僕たちは、「分断」以前の〈ほんもの〉の繋がりを再構築しなければいけないのだ!という主張だろう。
(……)
でもこれ、僕にはあまり意味のない主張に思える。「何かが欠落した不完全な関係性を、現状を変えることで完全な関係性に変換しなければならない」という論理の形式は、何も変わっていないからだ。一方は空間やメディアの設計を、他方は法や規範(教育)の設計を呼び出しているに過ぎない。
そもそも、その関係が〈ほんもの〉かどうかなんて、時間的な前後関係で変わるはずだ。昭和30年代にはあったとか、おばあちゃんの頃にはあったとか、それは歴史的な事実かもしれない。けれどそれを経験していない今の10代が「あの頃の懐かしい関係を取り戻そう」とか言い出したらそりゃダウトだろう。「ほんとうらしさ」はいつもそうやって捏造される。
(……)
空間の設計ということで考えるならば、〈ほんとう〉の繋がりを取り戻し、利用者に対して、それがどれだけいびつであるかを気付かせず、あたかも「全体性」が回復したかのように錯覚させる空間が、「よい」とされるようになるだろう。けれどもその評価に乗っていけない、いきたくないというのなら、僕は、ある定められた空間の中に「空気の読めない空間」を作るということが必要なんじゃないかと感じている。
なんだか電波な表現だけど、僕は決して「空気の読めない人のための空間」を作れと言っているのじゃない。一度は切り離された「空気の読めない」空間を、あたかもそこにあることが自然であるかのように、再び埋め込むのだ。今回の展示およびプレゼンでいえば垣内光司さんの作品は、とてもそういう意図に満ちたものだったと思う。たぶん彼の話の中では、そういう要素は結果的に抑えられていたけど。そういえばそう思って学校の中を見渡してみると、意外にこの大学にも「空気の読めない空間」はあって、そういう場所には、やっぱりたいてい個性的なたたずまいの学生が集まっている。
どうせ悩むのなら、建築家は建築家しか悩めないことで悩むべきだし、そのために、既に他の誰かが考えていることなら、それは他人の褌で相撲をとりまくればいいのだと思う。何を考えたかの前に、誰の褌を巻いたか、結局はそれが問われるのじゃないか。

By Charlie 2
http://blog.szk.cc/2009/10/23/know-your-enemy/
({By 茨木のり子} By Charlie)

私の敵はどこにいるの?
  君の敵はそれです
  君の敵はあれです
  君の敵は間違いなくこれです
  ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです
ああその答えのさわやかさ 明快さ
  あなたはまだわからないのですか
  あなたはまだ本当の生活者じゃない
  あなたは見れども見えずの口ですよ
あるいはそうかもしれない敵は……
  敵は昔のように鎧かぶとで一騎
  おどり出てくるものじゃない
  現代では計算尺や高等数学やデータを
  駆使して算出されるものなのです
でもなんだかその敵は
私をふるいたたせない
組み付いたらまたただのオトリだったりして
味方だったりして……そんな心配が
  なまけもの
  なまけもの
  なまけもの
  君は生涯敵に会えない
  君は生涯生きることがない
いいえ私は探しているの 私の敵を
  敵は探すものじゃない
  ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの
いいえ私は待っているの 私の敵を
  敵は待つものじゃない
  日々にぼくらを侵すもの
いいえ邂逅の瞬間がある!
私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって
敵! 叫ぶことのできる
私の敵! と叫ぶことのできる
ひとつの出会いがきっと ある

By 埴谷雄高「序詞 権力について」

政治の裸かにされた原理は、敵を殺せ、の一語につきるが、その権力を支持しないものはすべて敵なのであるから、そこでは、敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべてになつているのであつて、もし私達がまじろぎもせず私達の政治の歴史を眺めるならば、それがあまりにも強烈に、抜目なく、緊張して死のみを愛しつづけてきたことに絶望するほどである。

By わたし 1
「空気の読めない」的なるものは繋がろうとする人たちからは、フツーに無視される。空気の読めない「美術」とか、特にね。
敵と見方の二分法。
空気読める、読めないの二分法
では、敵が味方に、空気読めないものが空気読めるものに編入されるのは、いかなる条件のもとにおいてなのか。為政者の気分(或は広告屋的なものの気分)って言っちゃうと身も蓋もないかー。
そういった条件下における私たちの『自由』とは。

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