チェルフィッチュを見に行こうか、チケットはどうやらまだあるらしい。しかし、どうなのだろう。彼らの演劇はビデオで見たことがあるのだが、そして興味深いことは間違いないのだが、一方でビデオではなくその場で見る必然性があるのかと問われると疑問だ。というより、私は演劇を見ると、どうも舞台上の人々がバカに見えてしかたないのだ。ダンスやバレエは違うのに。台詞があるからだろうか。いや、チェルフィッチュの面白さは台詞とそれを発する身体にあるのではないだろうか。……とかいっていたら、夜にこんなのを見てしまうわけだ。

@おかざき乾じろ

チェルフィッチュ は徹底的に、演劇=舞台の本質をついていた。
3部構成が構造的に弁別されすぎているキライがあった(身体の動きも語りの特徴)が、それは演劇として成立させるための賭けとして成功していたと思える。 約11時間前 webから
(当たり前の事を書くならば)、まず基本として、ある人間の行為を演技か/まじか、で弁別するのは、行為する本人の意図(自由意志)によるかどうか、という基準で、行うことはできない。ということがある。 約11時間前 webから

(いうまでもなく)人は自分が話している言葉が何を意味しているか、すべてを理解できない(そもそも、実際に何を言おうとしているのか、理解せずに、すでに話している)。からである。 約11時間前 webから
人は自分が いかなる行為、振る舞いを何しているのか、明確に把握できないということと同じ。 約11時間前 webから
小説であれば、地の文があり、あるいは戯曲であればト書きがあり、つまりは(客観的に)状況を記述する、メタ言語がありうる。 約11時間前 webから
だが、舞台の上には、もはやト書きはなく、メタ言語はない。これが演劇=舞台の特質=可能性である。そこに特権的(選ばれ、選ぶ、最終審級としての)視点がない。対して、映画にも小説にもそれはある。(美術でははずすことができるが、無自覚だと要請され、そのまま現れてしまう)。 約10時間前 webから
プロット(構成)があり、プロットが形成する状況がある。そしてその状況野中にありながら、それをはっきり記述しえない、むすぼれるだけの言語があり、身体があり。つまりこうした事物=オブジェクトたちが舞台の上にあり、その事物たちのむすぼれ、がまた状況に差し戻され、状況は一層強化される。 about 10 hours ago webから
プロット(構成)があり、プロットが形成する状況がある。そしてその状況の中にありながら、それをはっきり記述しえない、むすぼれるだけの言語があり、身体があり。つまりこうした事物=オブジェクトたちが舞台の上にあり、その事物たちのむすぼれ、がまた状況に差し戻され、状況は一層強化される。 about 10 hours ago webから
演劇において、言葉を理解するということは、それほど意味を持たない。 about 10 hours ago webから
そもそも言葉を発する人が、それをまだ理解していないから話すのであり、演技(ミメーシス)されるのは、その話の内容ではなく、その盲点を、ふくんだ話すという行為そのものなのだから。 about 10 hours ago webから
そういえば、無知の知 というソクラテス=プラトンの対話法は、アリストテレスが見抜いたように演劇の核心。そしてもちろん漫才 の核心でもある。 about 10 hours ago webから
漫才は ほんらい哲学的でなければならない。そしてシリアスである。 about 10 hours ago webから
ロッパ about 10 hours ago webから
なぜ、モツナベか、あるいは23度設定で警察を呼ぼうとするか、なぜ、セミの話にこだわるか、 about 10 hours ago webから
これは駄洒落として容易に落ちがつくのだが、その落ちはあまりにシリアス。だが話している本人たちは、そのオチに気づいておらず、ただ、なぜそれを主題に話が堂々巡りしてしまうのかもわからず、ただ堂々巡りしている。それがアリストテレスのいう悲劇の構造そのもの。 about 10 hours ago webから
これで笑える人は天才だし、これをダンスという人も相当なもの。なぜなら、これが悲劇なのは、はじめから答えが出ている=あらかじめ運動が停止している=つまり、死が 明示されている、それを気づいているのに気づいていることに気づかない身体が舞台の上に並んでいるからである。 about 10 hours ago webから
あえて、暗くいってみた。 about 10 hours ago webから
元も子もないが、第一部は、まるで葬式で 次は誰かな、わたしかな、といっている場面のようなもの。第一部でいちばん台詞も身体も音楽のようにスムース(機械的)でヨドミナイ、のは、ゆえに極めて効果的であった。冬までモツか? about 10 hours ago webから
二部、にもかかわらず正社員、冷房23度で会社止めようかと相談。対して(セクハラか)警察呼ぶか? 会社止めろ、警察呼べば、終わりだが、ゆえに 23度を享受しつづける正社員。 三部、セミについてはいうまでもない。ここで話はいっさいリタンダントなし。 about 10 hours ago webから
あえて暗くツイートしている。いつも以上に明確。セミやモツナベが駄洒落にすめば、むしろ成功(ぎりぎりセーフ)。シンボリックになったらアウト。うまくいっているのは、話している当人、舞台の上のすべての人がそれに気づいていないようにふるまっているから。せいぜい駄洒落ですんでいる about 10 hours ago webから
@sakuraikeisuke  ダンスである、という勇気があれば、いうのもかまわないでしょう。ぼくにはないですね。 about 10 hours ago webから sakuraikeisuke宛
あえて、いう必要も感じません。 about 10 hours ago webから
身体 (身振り)が突出すれば(目立てば)ダンスだという単純な話にはしたくないので用心すべきだと。劇こそ、身振り(その無意識的=無意図的な表出)の芸術だったわけだから about 10 hours ago webから
言語(という明証性)への問い、が演劇の基本です。身振り、は言語の無意図性(無意識的表出)を露呈させるためにこそ組織される。ここに感情が充填(感情移入)されてしまいがちなのが演劇の陥穽ですが、すぐれたプロットはこれを回避させ、別の認識を開く。 about 9 hours ago webから
つまり 徹底的に言語との戦いです about 9 hours ago webから
ときにはダンスも、言語とたたかってほしいが、ダンスにとって、それは必要もない。(ダンスがたたかっているのはむしろ音楽かな。音楽にまけるわけにはいかないでしょうね)。 about 9 hours ago webから
桜井さん。その定義だとすれば、ダンスは、つねに抵抗としての言語表現を必要とするということになりませんか>@sakuraikeisuke   about 9 hours ago webから
ダンスのまず 抵抗すべきは機械的な身体ではなかろうか。そして物理的な身体ではなかろうか?(そのためにはまず機械としての身体、物としての身体を獲得、把握する必要があるとしても) about 9 hours ago webから
まあ、ありていですけどね。 about 9 hours ago webから
まあありていにいえば、演劇のロジック(劇が相手にし、ぶっこわし、あるいは組み立てるロジック)と、ダンスのロジックというのがちがうのではということですけれどね。 about 9 hours ago webから
ダンスがロジックをもつってことも認められないのであれば、困ってしまうけれど。(技術である限りロジックはある)。で、もっと困るのは、ロジックというとすべていわゆる、ベタな言語そのものだと思われてしまうこと。 about 9 hours ago webから
@sakuraikeisuke するとさ、桜井さん。ダンス批評でも演劇批評でも、まずここで相手にされている言葉(少なくともチェルフィッシュの場合、舞台の上で話されている言葉)について、論じる必要がありそうですな、これを回避はできないってことになりますね。 about 9 hours ago webから sakuraikeisuke宛
どんなに野暮でも、回避しないこと。今後ダンス批評家はヤボに徹して、 まず言葉を論じること。ぞんがい これは重要かもね。 about 9 hours ago webから
言葉が音楽のようだ、などと絶対言わない。音楽になっているなんてね。 ダンサーに向かって、きみの踊りは音楽のようだなんて、褒め言葉じゃないものね、ただ音楽に沿っているだけじゃん。のっているだけじゃん。 about 9 hours ago webから
ダンスの場合は、舞台というのが、演劇(の場合はかえって、舞台こそが、事物の意味的中枢=焦点をなくす)とちがって、積極的な意味を持たないような気がします。 about 9 hours ago webから
機械的な身体、の機械は 舞台なしでも 再帰性を確保する条件でしょう(音楽と同じ、音楽にとって舞台は必要条件ではないでしょう)。だから機械といいました。もっと機械性(かならずしも精緻とか高速とかを意味しない)を ロジックとして抑える必要も可能性もあるのでは。 about 9 hours ago webから
ジャドソンは基本的に これ=機械 を追求、脱構築しただけですからね。/ about 9 hours ago webから
言語すらも、この機械性で、捉え、身体化した。 about 9 hours ago webから
@sakuraikeisuke ジャドソンにしろ、簡単に総括するのは危険です。いちばん重要なイヴォンヌ・ライナーも、またもちろんロバート・モリスなどについても射程に入れなければならない。そもそもダンスというジャンルの問題のみでは語れないわけですから。そろそろ、お開きということで。 about 9 hours ago webから
@sakuraikeisuke イヴォンヌ は だから もともと ダンスか、どうか、なんて狭い枠で考えている人ではないのです。だから簡単に総括は危険と。 about 9 hours ago webから sakuraikeisuke宛
@sakuraikeisuke 2点補足しておきます。1、ダンスと呼ぼうと演劇と呼ぼうとかまわないが、ジャンル弁別(たとえばダンスと呼ぶこと)が、この「作品」の可能性を隠蔽してしまう恐れがあるのであれば、あえて呼ぶ必要もないし、呼ぶべきではないだろうという考え。 36 minutes ago webから
反対に、隠蔽された可能性(――語られなかった論議、問題群)を引き出すのであれば、あえてジャンル弁別(たとえば演劇と呼ぶ)を行うべき。 34 minutes ago webから
2点目。ダンスにおいて、身体を中枢的な統御(つまりダンサーの主体に帰属するもの=自己表現系としてダンスが把捉される)から、いかに外すか、というひとつの基本的課題があるとして、あえて言語系を並列させることで、身体を中枢から外すという、作戦もありうるでしょうが(→つづく) 30 minutes ago webから
けれど、もともと伝統的な舞踊(もちろんバレエにおいても)において、これ(中枢的、主体的な帰属から身体を外す、解放すること)は言語によらず、高度な技量によって実現されてきたことであって、言語を安易に用いることは、単に技量のなさを補佐する「場しのぎ」の策でしかないのではないかと。 22 minutes ago webから

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