mannerism and modern architecture

コーリン・ロウ『コーリン・ロウ建築論選集 マニエリスムと近代建築』
伊東豊雄・松永安光 訳  彰国社 昭和56年
「透明性—-虚と実」

さて、ジョージ・ケペシュは「視覚の言語」の中で非常に手際よく「透明性」という言葉の定義を更につきつめていったのである。

 二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共有部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するためには見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである、すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけではなく絶えず前後に揺れ動いているのである。透明な像の位置は、近くにあるかと思えば遠くに見えるといった多義性を秘めているのである。

(pp.206-207)

 後期セザンヌの特徴は、その極端な簡略化である。中でも全景に対して正面像が圧倒的な支配力をもっていること、奥行を感じさせる要素が少ないこと、その結果として、全景・近景・遠景が極めて凝縮された構造の中に組み込まれていることなどが、その特徴である。光源は限定されているが、多様に変化する。そして彼の絵画をじっと見つめると空間の中で対象物が前に飛び出してくるように見えてきて、この感じは不透明でコントラストの強い色彩により、一層強められ、また山の裾が画面の縁と交差することによって更に強められる。画面の中心部にはかなり密な斜め方向の直交するグリッドがかかり、周辺部には更にはっきりした水平および垂直方向のグリッドがかかって画面の中央部を支えている。
 正面性、奥行のなさ、空間の省略、光源の限定、物体の前方突出、限られた色彩、斜交および直交グリッド、周辺部を明確にする傾向、などはすべて分析的キュービズムの特徴である。(pp.208-209)

 斜めの曲線の構成は対角線方向の空間のくぼみを暗示し、他方一群の水平線と垂直線はそれとは対立的な正面性を強調している。概して斜めになった曲線はある種の自然主義的な意味あいを持つが画面の縁と平行な直線の方は絵画の面を強調する幾何学的傾向を示している。しかし、この二つの座標系は両者相まって画像を空間の広がりの中へ浮かび上がらせると同時に、画面の上に定着する役目を果たしている。そして交差し、重なり合い、絡み合いながら更に大きな輪郭のはっきりしない図像を構成していくこの二つの座標系は、典型的なキュービストのモチーフの発端である。(p.210)

 ガルシュ(図12)の住宅の一階部分の壁面の後退は屋上のテラスの両側に自立している二枚の壁面にも表現されている。この奥行は側面に回り込んだガラス窓からもうかがうことができる(図7)。(引用者註:屋上の自立壁面は、庭園側のファサードにおいて建物最前面の端まで伸びてきておらず、一階部分の後退した壁面の位置にあわせてとめられている)このような方法を用いて、ル・コルビジェはガラス面のすぐ裏側にそれと平行した細長い空間が存在することを言わんとしているのだ。(引用者註:たとえばそれは回廊のようなもの?)更に彼はその考え方を推し進めて次のようなことをほのめかしている。すなわち、この細長い空間の向こう側に一階の後退面、屋上の自立壁、側面に回り込んだ窓の枠などによって構成されたひとつの面が存在しているのである。そしてこの面は、物理的な事実というより明らかに概念上の都合で考えられたものとして受け取られてしかるべきでもあろうが、それがはっきりと存在することは否定できない。ガラスやコンクリートでつくられた物理的な面とその背後にある想像上の(実在性が全くないともいえない)面を見ると、透明性は窓の働きによって生み出された訳ではないことに気付き、「互いに視覚上の妨害をすることなく相互に貫入する」という透明性の基本的概念を思い起こすのである。
(……)以上に述べたような面のそれぞれはそれだけでは不完全で断片的であるが、これらの面を参照点として全体のファサードが構成されている。またこれらの面が表現しているのは垂直に層状に重ね合わされた建物の内部空間であり、次から次に浮かび上がってくる横に広がった空間の連続なのである。(pp.219-220)

 さてこの家を通してみると、ケペッシュが透明感の特徴として認めた空間の位置上の矛盾が存在するのだ。事実と暗示の間の絶えざる弁証法が存在するという訳だ。実際に奥行のある空間は見掛け上の奥行の浅さとは常に矛盾する。そしてその結果起こる緊張によって何度も繰り返し読みを深めることが強いられる。立体としての建物を垂直に分割する五層の空間と、水平に分割する四層の空間とはそれぞれ時に応じて眼をひくのである、そして空間をこのように格子状に分割することにより解釈は絶えず揺れが生じるのである。
 このような知的な洗練はバウハウスにはほとんど見られない。実際、知的な洗練というものは材料の美学とは相そぐわない場合が多いのである。(pp.221-222)

 この奥行は大会議場を貫く軸線上で、前庭の進入路の形に大会議場の建物の鏡像を射影したときにできる菱形の上に端的に現れている。しかし、ここでもガルシュの住宅と同様、この形態に固有の奥行の表現をどうにかして薄めようとしる努力がなされている。図形としてとらえた場合、これは木立、園路、建物そのものの動きなどによって幾つもに分断され、横軸方向を暗示する一連の指標に置き換えられるのである。そしてこういった相反した暗示作用の繰返しの結果、全体としてはある種壮大な葛藤の場となってくるのである。それは実で奥行のある空間と虚で奥行のない空間との間の闘いなのである。(p.227)

 これは虚の透明性が(キュービズムに由来するものであることは別にして)現代建築の必要構成要素であるというための議論ではなく、また虚の透明性が建築の正当性を試すリトマス試験紙となるというための議論でもない。これは単に属性の特徴づけに役立て、属性の混乱に対する警告として役立てばよいと願ったまでのことである。(pp.229-230)

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