メモ

岡崎乾二郎【見ることの経験】
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/okazaki/dan064_06.html

フリードの論で可能性が感じられるのは。没入という概念よりも、むしろ視覚を差異性として、捉えようとしたところにある。しかし、こっちは十分に展開されていません。この論を展開していけば視覚は消去されるどころか、絶え間なく分岐生成していくという、その進行しつつあるプロセスの中でだけ、はじめて、視覚は可能になるとさえいえるはずなんですが。
……絵画であれ彫刻であれ建築であれ、それらは視覚空間の問題であると同時にやはりそれをどう見るかということでは、やはり見る側の問題でもあると?
ええ、絵画だけではないですが、変換の過程ということで、たとえれば、ものを視るという行為には、そもそも文章を読んだりするのと同じ側面があるのではないかと考えています。文は、単に単一なシンボルとしてだけ成立しているわけではない(イコノグラフィに解消されるようなものではない)。
 読むというのは、むしろ推理、学習の進行し続けるプロセスです。単語を読むとは、その語に代わりうる複数の語のパラディグム(変換可能性)を見てとることであるし、文(そのシンタックス)というのは、さらにこんな単語が複数そこで出会うということであり、つまりはそこで出会っているのは、複数の異なるパラディグムだということになる。
 単語とはわれわれの視覚が捉える個々のイメージにほかならないし、絵画というのは、こうした潜在的に可能な複数の異なるパラディグム――つまりは両立しえない複数の空間が出会う文章のような場にほかならないわけですね。マサッチオやブルネレスキの作品を例にして、示したかったことは一言でいえば、そういうことだったと思います。

※この見出しには「 絵画、両立しない複数の空間が出会う場」とあるが、これはロウの透明性(相互貫入)との関係でもって理解すべきだろう。建築の透明性というアイディアを美術作品についても敷衍するならば、パラディグムの問題として捉えなおすことが可能ということだろうか。

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