「文字通り」と「現象的」の区別

http://www.hino.nu/bbs_backlog/bbs_oldlog_6.html

「文字通り」と「現象的」の区別 投稿者:日埜
投稿日:6月22日 00時31分
あぁやっぱりピンとこない。リテラルとフェノメナルです。
とりあえず常識的な理解としては、ギーディオンがデッサウのバウハウスを誉めたのに対して、若手のロウが、「ガラス使って透明なのなんか当たり前じゃん。もうちょっとなんかあるでしょーが」とか言いつつ、形態の見え係りの重層性がある種の透明な空間の意識を発生させることを、現代美術の文脈と絡めて、しかし3次元空間を対象に解きほぐしたわけですよね。
で、その文脈では、リテラルなほうはどっちかって言うと陳腐でありきたり、フェノメナルなほうはどっちかって言うと知的で高尚、そういう価値判断があったわけですし、まぁ実際その序列はそれはそれでいいのですけど、じゃぁフェノメナルな透明性だったら面白いのかといえば、もちろんそんなわけはない。
例えばマイヤーぐらい手法的で定型的になってくると、それこそリテラルに透明だろうが不透明だろうが、どっちだろうと面白さにきわだった差があるとは思えない。あるいは透光不透視とかヴォキャブラリーの幅が増えても、同じことだと思う。その意味で、ロウが与えた価値判断を宙づりにしたってまったく問題ないはず。
そうしてみると、対概念として出てきた、そのリテラルとフェノメナルですけど、それは対立する必要はないはずだろうと思うのです。リテラルに透明でフェノメナルに透明だったり、リテラルには不透明でフェノメナルに透明ってのが、普通考えているものでしょうけど、リテラルに透明でフェノメナルに不透明とか、リテラルに不透明でフェノメナルにも不透明とか、あるいは透明と不透明の間のどこかでどうこうとか、そのあたりもっとニュアンスがあるはずだと思うのですが。具体的にそれがどういうことかっていう意味付けまで含めて、もうあれも最初に書かれてから50年近くたってるんだし、同じところをぐるぐる廻るんでなしにきちんと再検討してみてはどうかな、と、思うぞなもし^^)。

コメントを残す

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です