Exhibition

隅田川Art Bridge
隅田川新名所物語2012
GTS
[会期]2012年10月27日[土]―11月7日[日]
[時間]10:00~17:00(最終入場16:30)
[会場]隅田公園リバーサイドギャラリー (台東区花川戸1-1 隅田公園地下) 
※入場無料
[WEB]http://gts-sap.jp/modules/ev_iap/index.php?page=article&storyid=40
企画の意図は以下のようなものらしいです……が私のような者にとっては、必然的に「観光」や「名所」といったような枠組みを吊り支える制度自体と美術作品がいかに関係ないかをベースにして作品が成立せざるをえないのが皮肉と言えば皮肉です(笑)。

◎「隅田川新名所物語 2012」展
出品者が事前にこの地域のリサーチを重ね、各々新たな視点からこの地域の隠された『名所』を見つける。それぞれの探索、取材から感じたこの地域の歴史の断層を、主に絵画やマケット、ドローイングなどの作品に作り上げていき、最終的に10月下旬からの『隅田川新名所物語2012』展を開催。
◎「隅田川新名所物語」ガイドブック (展覧会場にて配布)
「隅田川新名所物語2012」展出品作家の作品図像と、その作品の背景となった取材地点をマップ等を絡めて紹介するガイドブックの制作。
◎出品者によるアーティスト・トーク
10月27日[土]、28日[日]、11月3日[土]、4日[日]
各日ともに 13:00〜15:00

お暇でしたら、スカイツリー観光のついでにでも(苦笑)お立ち寄り下さい。
以下、観光について。おなじみのシアトリカリティにおけるプロセニアム←→キャンプ対立的な話ですけれども。(一瞬、ソンタグのCampをテントと張る野営のCampと混同しているような気がするのですが、全体の文意としては状況に属さないオスカーワイルド的ダンディズムな切断と野営に、ホモグラフとしてのCAMPを捉えているっていうことになるんですかね)
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/module/Study/OKK051129_theater2/index.html

現代における劇場の可能性──インタビュー〈2〉
【岡崎】 基本的にマイナーな美術批評家でしかないフリードは、スーザン・ソンタグのような売れっ子の批評家の見解に異を唱えていたように見えますが、けれど問題構成でとらえるとシアトリカルという問題設定自体、ソンタグが『反解釈』で行った批評、特に「キャンプに関するノート」で書いたものと重なっているのですね。キャンプというのは、非常におもしろい概念です。これを僕なりに分かりやすく説明すると、キャンプはどこでもできる。工場でも戦場でも、公衆トイレであっても。観光地でキャンプするのでなく、キャンプするとそこが観光地になる。というわけでキャンプは、その場にいながら、その場にいず、無関係にその場を観察するという装置となる。「キャンプ」というのは関係の切断を意味している。ソンタグが、欲望を抱かずにポルノグラフィを見るのがキャンプであるという。ならば、いかがわしい歌舞伎町にテントをはってキャンプするのも同じです。その場に属していない、切断がある。そういう意味でホームレスはみんなキャンプ趣味でしょう。キャンプしている人はその場にいながら、その場の外にいる。宇宙人みたいなもので、まるで無関係なエイリアンのように欲望も利害関係も離れて観察している。それは一種のエイリネイション(疎外)であり、観客の側から主体的に行われる異化効果です。それがキャンプですね。
 ソンタグによって定義されたキャンプの面白い所は、いわゆる60年代の演劇が街頭に飛び出し、現実的状況に入り込んで現実的なハプニングとして熱狂を引き起こすものを追求するものが多かったのに対して、キャンプの重要なポイントはむしろ状況への無関心であり、非熱狂、欲望の切断、場からの切断にあったことです。対象に対する美しいとかきれいだとか、汚いとか、反発だとか感情を徹底的に切断して、クールで感情移入しないのがキャンプです。オフ・ミュージアム、劇場の外に出る、ということでは似て見えても、両者はまったく両極端に離れている。熱狂=ホットとキャンプ=クールなわけです。熱狂型がルソーのいう意味で観客が主体的に確保する劇化=同化=感情移入の技術だとしたら、キャンプは観客が主体的にコントロールする「異化」の技術である。双方とは劇場というハードな建築装置、ハコモノに依存しないで成立させようという点では同じですが正反対の性質を持つ。
(……)
【岡崎】 60年代の演劇や美術は、見る側と作る側の切断される装置を批判しようとすると、どうしても単純にルソー主義になってしまった。けれど、権力によって切断を行使されるのではなく、その切断を方法論として我々が私有化して、自由に切断、接合する手段としてあるなら、どれほど深遠で高尚なものとして提示されたものでも、キャンプ的態度によって全てをキッチュにしてしまうこともできるし、逆にキッチュを高尚なものにもできる。今までの態度に同化しないという事ですから、偽者も本物もなくなる。いわば通常の疎外論ならばルソーへと傾倒していくのですが、これは疎外(エイリネイション)という効果を生産的に読み直したといえるでしょう。
  それで第三項のキャンプというものを、「組織」という面からもう少し詳しく述べると、これは脱組織なわけですよ。切断していくのです。マス(大衆)として組織されてしまった観客が、一人一人の個人になる方法論としてキャンプはある。相互に無関係になることです。それは外から見ると相当関係が壊れていて、皆が妙に無関係に切れて勝手にやれということでもあるけれど。
  ソンタグの言い方だとボードレールの精神的な核心もキャンプです。彼の恋愛モデルでは雑踏の中で偶然すれ違った人への恋であって、それ以上の関係を結ばない。ダンディーです。ダンディーの基本は世間的体裁との切断にある、どれほど恥ずかしいことをしていても平然としている。世俗的に規定された属性、価値概念から切断する。他者から承認されない価値観を平気でもち、社会関係や権力やお金など、既存の利害関係に還元されえない価値、プライドにすべてを賭ける。誰とも連帯せず、平然としている。これがダンディーであり、モダニストの基盤だとすれば、むしろキャンプこそがモダニズムの基盤にあるということになる。その先駆者がボードレールであり、「虚言の衰退」のオスカー・ワイルドだった。

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