メモ:

2013-01-13 – 偽日記@はてな
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130113

桑山忠明の作品はあきらかにアメリカ型のフォーマリズムの問題を継承している。例えばその特徴の一つに非造形性というのがあると思う。造形とはつまり、特定のフレームがあってそのフレームのなかに「よい形」が配置されることだ。あるいは、形が形として見えるためにはフレーム(地)が成立していなければならない、というようなこと。例えばインスタレーションのように空間全体がフレームとなったとしても、フレーム内の形が問題であれば造形的なものだということになる。対して、例えばジャッドの規則的に並んだ直方体(というか箱)の作品などでは、置かれたモノ(直方体)が作品なのではなく、そのモノが置かれることでその場所が作品となる。そこには図と地の区別がなく、人はモノ(実の形)を観ているのでもモノとモノの隙間(虚の形)を観ているのでもなく、空間を分節する仕草のようなものだけを観ることになる。つまり「形」がなくて、いわば空間=リズムだけがある、ということになっている(空間がリズムによって満たされている、というのか)。つまり、そう見えるように絶妙に直方体を配置するわけだけど。いやそれでも、でもここに直方体があるじゃん、と言って指さして、直方体の方に注目してしまうと、それはすぐにモノ(図、造形)になってしまうのだけど。

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