詞論
以前、ぼくがまだO氏のバック・ミュージシャンで彼と一緒に地方廻りをしていた時、彼と詞の話などを行き帰りの車中で交わしたことがある。彼は「見る前に×××しろ」と言いぼくは茶化して「×××する前に見る」と言ったことがあった。それは単なる笑い話に終わらず、ぼくはぼくなりに「×××××」と言う作品にして、それをまとめてみた。つまり、「×××」という動詞を風景の中に内包させてみたい、と言うのが、あの作品を作った動機だった。
なぜぼくがこれほどまでに、風景とか、そこに隠された人間関係(つまりは”ラブ・ソング”、若しくは”世界の記述”ということになるのだが)に固執するのか。
残念ながら、ぼくには(そしておそらくぼくの世代には)原体験と言うものが欠落していると思っているからである。ドストエフスキーの死刑未遂事件や、戦後派のものかき達の戦争体験を、ぼくがどんなにうらやましそうな眼つきでながめることか。
ぼくらにはほめたたえる何ものもなく、信じられる何ものもなく、同時に失望する何ものもない時代に育った。ぼくらは彼らの豊饒な青春を読み、ぼくらの前にひろがっている風景を、自然に捐うことなく見つめているだけだ。
ぼくは影絵芝居のように風景に透けて見えるラブ・ソングのことを考えている。それがぼくの原風景なのかもしれない。
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以下は参考まで。
風街まろん、あるいは麺茹。
http://www.kazemachi.com/
http://www.kazemachi.com/cafe05/kisetsu/index.htm
「季節の松本」は本当に示唆に富みます。