元はJohn Tinnell氏のコレ(http://jtinnell.blogspot.com.au/2012/06/originary-technicity-and-grammatization.html)
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根源的技術性とグラマティゼーション: スティグレールの企図における二本の柱
By John Tinnell
根源的技術性というスティグレールの理論は、人間というものが技術と不可分であることを主張している。デリダの代補の論理を追いながら、スティグレールは時間、記憶、経済のモード、そして政治的組織――そして人間の脳そのものも――その全てが、組織された無機的物質の技術的進化との結合から構成されるのだと論じる。それはつまり、人間が人間として「ある/いる」ということは、本質的に、技術が可能にする条件に対して、偶然的で、つねに借りを負っている状態、あるいはその戯れとして「ある/いる」ということを意味している。
このような概念は、もちろん人文学と科学、また、あまねくポピュラー文化全般との接触を高めるものである。キャサリン・ヘイルズの最新の研究は「テクノジェネシス」というコンセプト――人間とテクノロジーの共-進化という想定――に多くを負っているし、またケビン・ケリーの新しい書籍『テクノロジーは何を欲するか』は、スティグレールの思考の基本的原理である「一般的な技術システム(ケリーはこれをテクニウムと呼ぶ)は、技術革新や社会的慣習を押しのけて、自らの繁栄の論理に役に立つ方向に向けて進む」という考えを敷衍するものだ。
世界の中の現役の技術進化における全ての技術やその流れにおいて、スティグレールは書くこととコミュニケーションのテクノロジーを特別注目して扱っている。彼は「グラマティゼーション」という言葉の下に、このようなテクノロジーを参照している。スティグレールにとって「歴史」とは、もっとも「代補の歴史」として特徴付けられる傾向のあるものだ。グラマティゼーションとは、「ある流れを持ったものを、切り分けられた要素への分解する」ということを含むものなのだ――例えばアルファベットで 書くことは、話すことの流れを、一方で「繰り返し可能」でモジュール化されることができ、また他方で正書法的に安定することができる、という「認識できる文字の有限的なシステム」へと切り分ける。
歴史――代補の歴史――は、従って、文字文化以前の古代における「書くこと」から今日のデジタル化へと至る一般的な発展のコースを基礎づける、段階的発展におけるグラマトロジーの基礎というものの上に描き出される、ということになる。与えられた歴史の瞬間において生起してくる存在、あるいは社会の再構成というものを理解するために、スティグレールは私たちの経験というものの重要な側面を形作る、構成要素的的な力としてのグラマティゼーションの役割――これまでは、私たちの経験の生成は、自然や超越論的でアプリオリな、要するに技術の物質的性質からは決して影響を受けないものから成ると考えられがちだったけれど――を目立たせるものとして維持するのである。
ここに再び、スティグレールの企図が、私たちが「グラマトロジー」と呼ぶより大きな理論と共鳴するのである。まさに、彼の思索は、1960年代から1980年代にかけて、グラマトロジーに関わる思想家が連綿と続けてきたことの、中心的課題を効果的にリバイバルするものであるのだ。「書くこと」の古典主義者や歴史学者(Goody、Havelock、Harrisなど)、テル・ケルで連帯していたフランスの哲学者や文学者(デリダ、バルト、シクスーなど)、そして北アメリカのメディア理論家(Ong、マクルーハン、ウルマーなど)。リバイバルしつつ、こういった文章を書き上げる中で、スティグレールは何をそこに貢献しようとしたのだろうか? どのようなことを研究課題に加えようとしたのか? そのフィールドの追求の真髄において、どのような彼の概念が取り上げられるのだろうか?
スティグレールの仕事を取り上げること――その洞察や、またその未解決の主張を取り上げることは、グラマトロジーと今日の技術研究とを結びつけること、すなわち「書くこと」の歴史と理論を、現在進行中のデジタル・ネットワーク・メディアの衝撃のど真ん中の、まさにその根底に横たわるある種の変化を記述せんとする思弁的な努力のなかに集結させることを意味するのである。
もし「デジタル化」というものが代補の歴史において、現在の段階を特徴的に記すものであるのならば、昨今のユビキタスでデジタル・フィジカルなインターフェースの進展は、確かに我々の時代とこの先に予測される未来において、もっとも重要なグラマティゼーションのプロセスであるということになるだろう。しばしば言及されるコンピューターの第三次的進化の波――メインフレームや文房具的PCの後に、モバイルで、ウェアラブルで埋め込み可能なユビキタス・コンピューティングシステム。ソフトウェアはエブリウェア。インターネットは日常のあらゆる場に浸透し、デスクトップ、ラップトップ、電源、WiFiホットスポットを超えて、物体や空間を突き抜けるように広がる。身体的、物質的現実はデジタルネットワークに接続され、あるいは拡張化される。ビットも世界は原始の世界にこれまで以上に融合するようになる。(レフ・マノヴィッチ2006年の素晴らしいエッセイにおいて、この軌道を研究し、メディア理論や文化施設におけるその重要性を主張している。 『拡張空間の詩学』http://www.alice.id.tue.nl/references/manovich-2006.pdf)
デジタル・フィジカルなグラマティゼーションは、実体的な空間、存在物、出来事といった要素を連結したままで、デジタル的な流れを分節化する。
スティグレールの仕事に対する幾つか強調しつつ、現代におけるデジタル・フィジカルなグラマティゼーションを理論化するために、どういったことがカギとなる入り口になるのだろうか? スティグレールの言い方を借りれば、どのような「歴史の理解力の形」が、今日の技術発展の瞬間に適したものなのだろうか? このデジタル化の段階の瞬間を、私たちは「ユビキタス・インターフェース」と呼べるかもしれない。
*技術とグラマティゼーションの間の相互作用についての補足説明:技術はテクノロジーだけを意味しているのではない。それは、ギリシャ後のテクネーが指し示すようなテクニックの領域も含んでいる。グラマティゼーションは、テクノロジーとテクニックを共に考えることの必要性を説明する。ある連続的な流れを分節化するということを伴うグラマティゼーションのプロセスは、身振りや痕跡を共同体から切り離し、技術の中への差し向ける。そしてグラマティゼーションは、書くこと、またコミュニケーションのテクノロジーと――しかしまた、様々な他のかたちで――共に発生する。
スティグレールがよく用いる例示のひとつが、産業革命における機械である。この産業革命は人間の腕の動き――ジェスチャーする腕、そしてその腕の力は自立して、近代の工場に見られるような様々なものの生産を繰り返すことができる――を分節化した。その結果として、人間の労働者は、彼/彼女が自身の運動によって道具を使うようなクラフトマンとして働く以上に、産業機械の操作を行うようになった。(産業革命におけるこの歴史的瞬間の重要性は、ハンナ・アーレントとヴィレム・フルッサーによっても議論されている)むろん、尖筆から印刷プレスへという運動は、この移行のダイナミクスを反映している。そしてもう一点理解されるのは、歴史的な軌道がこの引き続いて「コンピュータ層」と「文化的層」――この後はレフ・マノヴィッチが今日のデジタル・カルチャーの根本的な弁証法的展開を記述するために用いた後だが――とが現出することを告げ知らせるものであるということだ。
グラマティゼーションは、技術的進化と人間とテクノロジーの関係について、よくある拡張――つまりテクノロジーとは人間の生得的能力を人工補綴(義手や義足)的に拡張することだ、と考える――とは少しばかり異なる学説を示している。グラマティゼーションのプロセスで考えられていることは、テクノロジーとはある「割り当てること」の結果――「拡張すること」ではなく――ある一つの流れや運動、人間やそれ以外のものの連続性から分離してくることによって定義付けられるような「割り当てること」という、無機的な物質の組織化である。一度バラバラにされ、無機物として自律的に刻み込まれたもの、運動は文法となり、従って代補の論理とデリダが「エクリチュールの原子核特徴(trait=トレ)」と呼んだものによって拡張する。このような技術の繰り返し可能性や、社会的組織化の発展における技術の起源的・構成的力や、存在論、また人間の身体そのものについても拡張という概念は考えられないのである。