『サマーウォーズ』は前売りを買ってしまったので、バウスシアターにやってくるのを待っている(15日から)ワケですが、昨晩テレビをつけたら『時かけ』をやっていたので久しぶりに見てしまった。で、やっぱりこれがまぁ、文句なく良いわけですよ。夏休みの東京女子大の芝生に日が差し込み、向いのアテスウェイが繁盛しているのを毎日目にする身としては、それなりに思い入れもございます。
とはいえ、予てより成長期の女性(とりわけ女子中高生)には名状し難い醜さ、というかヘンな生々しさがあって嫌だ、ということを主張している私ですが、それが男子校に行ってしまったという取り返しがつかない過去へのルサンチマンに起因するかどうかはどうでもよいとして、「規範の相対化」(つまり「こうでない私」という想定)という問題は私たちの有限的な(というか一回性の)生というもんだいとやっぱり衝突するのですね。
そういえば、空間的、あるいは時間的にも「複数的な私」という話って、美術とか文学とか映画とかアニメとかであるんだろうか。そういう意味では埴谷の虚体は超時空的な自我ですから、ある意味でそうなんだけど、まぁもはや複数とか単数とかいうレベルじゃねーしな……と思ったけれど、やっぱり時間的/空間的/規範的制約を超えた「可能態全てを含む私」を扱うとやっぱりそっちに行っちゃうだろうか?